曹操政権における丞相(司空)長史
三国志研究会会誌『鶏肋譚』に載せたものをほぼそのままあげてみる。
長史という官職がある。実は大変重要な官職であるのだが、いまいち知名度が低い。
長史は現代日本でいうところの省庁事務次官クラス。大臣を除いた省庁のトップである。さらにいえば丞相長史は内閣府の事務次官というわけだ。この論考ではその役割を確認した上でその重要性を説く。それとともに丞相長史王必の知名度を上げていきたいと思う。どちらかというと後者を目的としている。
まず、漢の官職についての書物『漢旧儀』には長史について次のようにある。
『北堂書鈔』巻第六十八 設官部二十の引く『漢旧儀』
太尉・司徒長史、秩比二千石、号為「毗佐三台、助鼎和味」。其遷也、多拠卿校也。
訳:太尉・司徒長史の秩禄は二千石、三台(三公:太尉・司徒・司空)を補佐し、三公の調和を助ける。その任免は普通、大臣の考査によって行われた。
ここで挙げられている太尉・司徒長史の基本的な役割は、
1三公の補佐
2三公間の調停
であり、任命は各大臣にゆだねられていたようだ。
この長史の役割は太尉・司徒府のみのものではなく、長史一般に共通したものとも考えられてよいかと思われる。
次に、曹操の長史となった人物を推定年代順に見ていく。
1、劉岱、曹操と同郷の予州沛国の出身。時期は不明だが、司空長史として征伐に同行し、功績があったので列侯に封ぜられた。曹操が司空であった建安元年(一九六)から建安十二年(二○七)の長史であり、最初期の人事であると思われる。
2、薛悌・王国、薛悌は東郡、王国は東平国の人であり、どちらも曹操の初期の根拠地である兗州の出身である。曹操の冀州平定後(建安十年(二○五)頃)にそれぞれ左長史・右長史となった。
3、陳矯、徐州広陵郡の人。司空の掾属となったあと、いくつかの官職を歴任し曹操の東征時(おそらく建安十三年(二○八)の赤壁の戦い)に丞相長史となった。
4、国淵、青州の楽安国の人。はじめ司空掾属となり、曹操の関中征伐の際(建安十六年(二一一))、居府長史として留守の事務を統括した。
5、徐奕(一度目)、徐州東莞郡の人。曹操の馬超征伐に従い(建安十六年(二一一))そののち長安近辺の鎮撫のために丞相長史として長安に留まった。彼はのちに再び長史となる(後述)。
6、徐奕(二度目)、5に続き二度目。曹操の孫権討伐の際(建安十七年(二一二)あるいは建安十九年(二一四)?)留府長史に任命され、留守を預かった。
7、萬潛・謝奐・袁霸、萬潜は兗州の人で、曹操を兗州牧に迎えた人物。謝奐は詳細不明。しかし、文帝期に朝廷に忠実であったが、先に亡くなってしまったとして、国淵や徐奕らとともに哀悼されている。おそらくは彼らと同程度以上のキャリアがあったと思われる。
袁霸は予州陳国の人。彼らは建安十八年(二一三)、曹操へ魏公就任を進める署名に長史として名を連ねている。
8、杜襲(一度目)、予州潁川郡の人。丞相軍祭酒などを経た後、丞相長史として張魯討伐(建安二十年(二一五))に同行、平定後も督漢中軍事として漢中にとどまる。
9、劉曄、揚州淮南の人。司空倉曹掾となったのち、張魯討伐時に曹操の主簿となる。漢中から帰るにあたり(建安二十(二一五))行軍長史となった。
10、王必、兗州の人。兗州従事として曹操に仕え、曹操の献帝への貢献の使者となる。当時権力を握っていた李傕に殺されかけるが、鍾繇のとりなしもあって役目を果たす。曹操の献帝擁立への第一歩は王必によって踏み出されたといっても過言ではない。のち主簿となる。呂布を捕えたときには、縛られている呂布から縄を緩めてくれと頼まれた曹操が迷っていると、「危険だから」といって諌めた。この言がなかったら、曹操は逃げ出した呂布により殺されていたかもしれない。建安二十三年(二一八)丞相長史として、許を預かる。金禕らの反乱がおき、手傷を負いながらも鎮圧。しかし、その傷がもとで死んでしまう。なんという忠義であろうか。曹操も王必をたいへん信頼しており、王必の死を知って怒り狂うと、漢の百官を虐殺したという。(※王必の所だけ詳しいとか字のサイズが大きいなどといったことは決してありません。)
11、辛毗、予州潁川郡の人。兄が袁紹に仕えていた関係から司空曹操の招聘に応じられず袁紹―袁譚に仕えた。袁譚の和睦の使者として曹操の元へ行く。のち議郎となっていたが、曹洪とともに下弁平定に派遣され(建安二十二年(二一七))、帰還すると(二一八年か?)丞相長史となった。
12、杜襲(二度目)、8に続き二度目。定軍山で夏侯淵が劉備に敗れると(建安二十四年(二一九))留府長史に任じられ長安を鎮守した。
さて、この曹操の長史であるが、次のようなことがわかる。
2や7から、同時に二人以上の長史がいた時期があることがわかる。『漢書』巻十九上百官公卿表 によれば、丞相には二人の長史がいたという。また漢代には丞相長史が三人以上の時期もみられる ことから、丞相の職務の拡大に合わせて人数も変わっていったものと思われる。
また、その出身を見ると黎明期の根拠地である兗州および曹魏の人材の拠点ともいうべき予州の人物が多い。州の従事や司空・丞相府の掾属といった曹操の直接の属官であった人物が長史となる傾向がある。
そして、長史の職務には次の三種類があったと考えられる。
一、征伐に同行する
1や8などがそれである。
二、留守を預かる
4・6・10などがそれである。
三、不安定な地域の鎮撫
5・12などがそれである。
一と三の職務は関連しており、はじめに丞相の補佐として征伐に従い(一の職務)、平定後も不安定であった場合、そこに留まって丞相曹操の代理として鎮撫にあたった。(三の職務)
また、丞相の代理という観点から、二と三の職務に関連を見いだせる。
このように、丞相長史の役割は、丞相の補佐、そしてその代理である。平常時は補佐として丞相府の事務の統括を行い、非常時には征伐に参加、時にはその代理としてたいへん重要な役目を果たす必要があった。
そのため、曹操との個人的な信頼関係が重視され、古くからの幕僚である兗州人や、曹操政権の中心であった予州人が多く就任した。記録上最初の司空長史であった劉岱が曹操と同郡出身であることは印象的である。
今回の論考は曹操時代の長史の記述の整理といったところで、深く研究することはできなかった。今後はさらに史料を読み込んだり、他の時代や勢力との比較検討によって、権限などをより具体的に考えていきたい。