曹安民、安民県令説
だいぶ昔に下書きしていた記事で、内容については過去にツイートしたこともあるらしい(覚えてなかった)
曹安民、曹操の弟の子で、張繡の反乱で死んだ人物である。
安民は諱(名前)だの字だのと言われてきたが、ここに役職説を唱えたい。
当時、諱を呼ぶのは失礼なので、基本的に姓+役職が呼称となり、地方長官の場合は姓+地方名で呼ばれることがあった。
豫州刺史劉備が劉豫州と呼ばれたり征羌県令だった焦矯が焦征羌と呼ばれている。
焦征羌は、征羌県令でなくなった後もそのまま征羌とよばれていたようだ。
んで、東平郡には安民という地名があった。
東平郡は曹操の最初の根拠地である兗州にあった。
重要な拠点だったのか、官渡の戦い後に曹操が穀物を求めて安民に来たり、李典が駐屯したりしている。
『三国志』巻十八、李典伝
紹破,以典為裨將軍,屯安民。
ただ続漢書郡国志では安民は県として記録されておらず、『水経注』によると安民亭であったらしい。*1
曹操の時代には県に昇格されていたか、あるいは曹安民は安民の亭長であったのかもしれない。
*1:濟水西有安民亭,亭北對安民山,東臨濟水,水東即無鹽縣界也。(巻八、済水)