雲子春秋

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刺史の人事権に関する根拠への疑義(追記あり)

私は刺史が後漢を通して行政権を拡大していったということには賛成している。
刺史の権限に関して、刺史が太守県令の任命権を得ていたとする厳耕望*1の論がある。


次の文は県令任命権の根拠とされるものである。

後漢書』列伝二十一、賈琮伝
琮即移書告示,各使安其資業,招撫荒散,蠲復傜役,誅斬渠帥為大害者,簡選良吏試守諸縣,歲輭蕩定,百姓以安。

中平元年(184)、賈琮が交阯刺史となって「移書告示」した内容
・おのおの資産援助せよ
・荒れ散じた者を帰順させよ
・傜役を免除せよ
・害をなすものの首領を誅殺せよ
・良吏をえらんで県の令長を試守させよ
最後の条がその根拠とされているが、はたして純粋な県令任命権といえるのだろうか。
「移書告示」はおそらく郡に「書を移し(伝達し)告示した」ということではないか。
つまり、刺史賈琮が、郡太守に対して、良吏を選び県令を試守させるように、との布告を出したのであって、賈琮自身が県令を任命したのではない。


県令を試守とはどういうことか。
濱口重國氏は「守令等の官は勅任官たる資格を具備せぬ者(略)郎中の官を経過した事のない者を、仮に令・長・丞・尉に任じたものであって(略)これら守官の任用は、郡太守、又は王国の相によって行われ」*2たとする。
本来県令は勅任官であり、孝廉に推挙されるなどして郎官を経た者が任命されるのが基本である。
しかし、郡太守が県令を任命するのはしばしばあることであった。


この賈琮の「告示」に関しては刺史の郡監督職務の範囲内で解することが出来ると思う。
そして人事権に関してより注目すべきは以下の文であると思う。

後漢書』列伝四十八、蓋勲伝
後刺史楊雍即表勳領漢陽太守。

中平元年ごろ、涼州の乱の後、蓋勲は刺史の楊雍の上表によって漢陽太守を領している。
刺史が上表で太守を任じるのは後漢末の動乱でしばしば見られることである。
ただ、これは刺史に恒常的な太守任命権があったというわけじゃなく、有事の際などにおいて、特別に刺史が太守を任じたものではないか。


言いたいこと
・刺史の太守の人事権は恒常的なものであったわけでなく、特殊なもの。
・群雄割拠ではその特殊な権限を恒常的に使用した。

追記

twitterでの指摘から。

@yunishio
「表勳領漢陽太守」って、漢陽太守にするように陳情(推薦)したってだけでこの時点で任命したわけではないんじゃないかなあ。http://bit.ly/lYu8vX
http://twitter.com/#!/yunishio/status/84503728849293313

いわれてみれば、この上表は推薦ととらえたほうがよさそう。
推薦の上表→朝廷による任命という流れ。
というわけで、刺史に地方官任命権はなかった。
漢末の群雄達の太守の任命は推薦の上表を形式的に行うことで、実質的には自由に太守を任じていたと思われる。


yunishioさん指摘ありがとうございました。

*1:厳耕望『中国地方行政制度史 秦漢地方行政制度』第九章 監察(上海戸籍古籍出版社 2007)

*2:濱口重國「漢碑に見えたる守令・守長・守丞・守尉等の官に就いて」(『秦漢隋唐史の研究・下巻』東京大学出版会、1966/11)