刺史の軍事
後漢安帝期以降、有事に際して刺史が軍事行動をとることがしばしば見られるようになる。
上の二つの例では御史中丞が刺史を“督”して軍事行動している。
刺史が軍事行動する場合は御史中丞のような中央の監察官によって“督”されていた。
という結論で終わりたかったけど『後漢書』の刺史の軍事行動の記述はむしろ“督”がないことが多い。
揚州刺史と九江太守が賊を討伐したが負けて死んだ。
とだけあり“督”の記述は特にない。
しかし、同書の別の箇所に同事件のことが記されている。
それをみると
『後漢書』列伝二十八、滕撫伝
建康元年、九江范容・周生等相聚反乱、屯拠歴陽、為江淮巨患、遣御史中丞馮緄将兵督揚州刺史尹燿(耀)・九江太守鄧顕討之。燿・顕軍敗、為賊所殺。
このように揚州刺史らは御史中丞の馮緄によって“督”されている。
“督”の記述がなくても、実際は“督”されていることもあるわけだ。
省かれているだけで、ほとんどの刺史の軍事行動に関しては、御史の監督がついていたんじゃないかと思う。
また、さらに別の箇所の同事件。
州刺史らを“督”したことはここでは“督州郡兵”と書かれている。
つまり、
督○州刺史=督州郡兵
であるといえよう。
督州郡兵で調べると
このように侍御史が州郡を“督”している例もある。
さて、軍事行動における御史と州郡の関係はいかなるものであったのであろうか。
その具体的記述が法正の曾祖父法雄の伝にある。
『後漢書』列伝二十八、法雄伝
乃遣御史中丞王宗持節發幽、冀諸郡兵,合數萬人,乃徴雄為青州刺史,與王宗并力討之。連戰破賊,斬首溺死者數百人,餘皆奔走,收器械財物甚衆。會赦詔到,賊猶以軍甲未解,不敢歸降。於是王宗召刺史太守共議,皆以為當遂撃之。雄曰:「不然。兵,凶器;戰,危事。勇不可恃,勝不可必。賊若乘船浮海,深入遠島,攻之未易也。及有赦令,可且罷兵,以慰誘其心,埶必解散,然後圖之,可不戰而定也。」宗善其言,即罷兵。賊聞大喜,乃還所略人。而東萊郡兵獨未解甲,賊復驚恐,遁走遼東,止海島上。
御史中丞王宗が刺史・太守を召して協議している。
ここでは皆が撃破すべきとする中、法雄が兵をやめ、心を攻めて賊軍を解散させるよう進言し、王宗がこれを取り入れている。
戦略会議の決定権が御史である王宗にあり、御史の役割はただ監督というだけではなく、統率も兼ねているようだ。
後漢の兵制はよくおぼえてないけど、郡単位の徴兵が基本だった気がする。
太守は郡将とも呼ばれ、それを指揮した。
兵を指揮し個々の戦術的運用をするのが郡太守で、刺史は州内の太守を広い範囲で運用し、総合的・戦略的に統率・監督するのが御史、みたいな感じかな。軍事はよくわからん。
後の護軍とか都督とかとも似た部分があるような気がする。
魏以降御史の影が薄くなる気がするけどもしかしたら何か関係あるかも。