雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

後漢と羌族、その5

http://d.hatena.ne.jp/chincho/20110621/1308584206の続き。
謁者もやられ、大ピンチの漢王朝

馬武の活躍

後漢書』列伝七十七 西羌伝
永平元年,復遣中郎將竇固、捕虜將軍馬武等撃滇吾於西邯,大破之。事已具武等傳。滇吾遠引去,餘悉散降,徙七千口置三輔。

改元をはさんで翌永平元年(58年)中郎将竇固、捕虜将軍馬武らが滇吾を撃破。滇吾は遠方に去り、ほかは逃げ散ったり降伏したりし、七千口を三輔に移住させた。


余談だが、『後漢書』明帝紀に「中郎将竇固をして、捕虜将軍馬武等二将軍を監し、焼當羌を討たしむ。」とある。
中郎将が将軍を“監”している。後の護軍とか都督とかみたい。


さて、馬武伝みる。

後漢書』列伝十二 馬武伝
顯宗初,西羌寇隴右,覆軍殺將,朝廷患之,復拜武捕虜將軍,以中郎將王豐副,與監軍使者竇固、右輔都尉陳訢,將烏桓、黎陽營、三輔募士、涼州諸郡羌胡兵及弛刑,合四萬人撃之。到金城浩亹,與羌戰,斬首六百級。又戰於洛都谷,為羌所敗,死者千餘人。羌乃率衆引出塞,武復追撃到東、西邯,大破之,斬首四千六百級,獲生口千六百人,餘皆降散。

今回の陣容
・捕虜将軍馬武
・副将:中郎将王豊
・監軍使者竇固
・右輔都尉陳訢
中郎将だったはずの竇固が馬武伝では監軍使者となっている。監軍使者といえば後漢末、劉焉がついたポジション。
石井先生によれば、「監軍使者は正式の官職名ではなく「持節して○○の軍事を監督する勅使」の総称であった」という。
率いたのは烏桓兵、黎陽営*1、三輔の募兵、涼州諸郡の羌胡兵、刑徒、あわせて四万人。
金城郡浩亹県*2で羌と戦い、斬首すること六百。
洛都谷では羌に敗れ、千人余りの死者を出した。羌族は衆を率いて塞を出た。馬武は追撃してこれを破り、斬首すること四千六百、奴隷千六百人を捕らえ、ほかは皆降ったり逃げ去ったりした。

護羌校尉復活

以謁者竇林領護羌校尉,居狄道。林為諸羌所信,而滇岸遂詣林降。林為下吏所欺,謬奏上滇岸以為大豪,承制封為歸義侯,加號漢大都尉。明年,滇吾復降,林復奏其第一豪,與俱詣闕獻見。帝怪一種兩豪,疑其非實,以事詰林。林辭窘,乃偽對曰:「滇岸即滇吾,隴西語不正耳。」帝窮驗知之,怒而免林官。會涼州刺史又奏林臧罪,遂下獄死。謁者郭襄代領校尉事,到隴西,聞涼州羌盛,還詣闕,抵罪,於是復省校尉官。滇吾子東吾立,以父降漢,乃入居塞內,謹愿自守。而諸弟迷吾等數為寇盜。

謁者竇林に護羌校尉を領させ、狄道に配置。竇林は外戚竇融の親族、すなわち竇固の親族でもある。
竇林は羌族達に信用され、滇岸(滇吾の弟)は竇林のもとに来て降伏。
竇林すげー!!
が、しかし、竇林は下吏にあざむかれ、誤って滇岸を焼何羌の首領と奏上*3、承制し帰義侯に封じ、さらに漢大都尉の称号を加えてしまう。
翌年、兄の滇吾が降り、竇林は再びその首領であると奏上、ともに朝貢に詣でた。明帝は一つの種族に二人の首領がいることをあやしみ、詰問した。
竇林は窮して偽って言い訳した。
曰く「滇岸ってのは滇吾ってことですよ。隴西の言葉がアレでアレだったんで(汗汗」
言い訳は当然嘘だとバレ、免職。
追い討ちをかけるように涼州刺史が竇林の収賄を上奏。竇林獄死。
謁者の郭襄が代わって護羌校尉を領し隴西にいったが、涼州羌族の勢いがヤベーと聞いて朝廷に帰ってきて罰せられる。
こうしてまた護羌校尉はなくなった。
滇吾の子の東吾が立ち、漢に降ったため塞内に居住した。彼自身は慎みがあったが、その弟の迷吾らはしばしば略奪を行っていた。

雲子曰

羌の乱は馬武等がでてきてあっけなく鎮圧。
率いた兵をみるに異民族の力をかなり借りた鎮圧である。
五胡十六国時代への伏線はすでに張られているようだ。
竇林けっこう有能だったんじゃないのかな。ていうか陰謀のにおいが…。
刺史が護羌校尉を弾劾している例。刺史の監察対象は太守だけじゃない。


ていうか郭襄ェ…。

*1:光武帝の統一に功績。黎陽謁者が置かれ監督していた。

*2:前にも出てきた、馬援が羌族と戦ったところ

*3:本当は兄の滇吾が首領