華陽国志人物伝 楊終
楊終
☆Life Story
十三歳で『雷賦』という優れた作品を作り、また屈原の『七諫』に精通していた。
明帝の時代に班固や賈逵*1と並んで校書郎となり、『太史公書』(史記)を整えたほか、『生民詩』を作った。
後に太守に連坐し、北の辺境に遷され、『孤憤詩』を作った。
章帝が東に巡行するとまた、『符瑞詩』をたてまつり、『封禅書』を制作した。赦免されて、郷里に還った。
そのほか『春秋外伝』や『章句』などの著書がある。
雲子曰…
ようやく後漢の人士が登場。
かれは『後漢書』巻四十八に伝がある。
太守に連坐した事件については『後漢書』に詳しい。
以下『後漢書』より。
楊終の兄楊鳳は蜀郡太守の廉范*2に仕えていた。
廉范は何らかの罪によって州刺史の監察対象となり、楊鳳を楊終のもとにつかわした。
楊終は廉范を弁護したために連坐することとなった。そして西の辺境、北地郡望松県に送られたという。
北地送りにされている間に蜀で母が亡くなるなどけっこう辛い目に遭っている。*3
その後賈逵の推薦によって郎中となったが病死した。
郎中は官途の一歩目といったところである。同じく校書郎だった賈逵は皇帝側近の重職である侍中とかにまでなってるのに。*4
結論:楊終は廉范を弁護したことによって人生が狂ってしまったかわいそうな人。