薛氏の系譜その2
だいぶ間が開いてしまいましたが前回にひき続き薛氏の系譜を見ていきます。
齊桓霸諸侯,獨薛侯不從,黜為伯.歴三代,凡六十四世,其可記者:畛生初,初生厲侯陵,(中略)清生愍侯洪,為楚所滅.
訳:斉の桓公が覇者となったが、ひとり薛侯は従わず、格下げされて薛伯となった。三代(夏、商、周)を経て、およそ六十四世、
その記すべき者は、畛は初を生み、任初は厲侯の陵を生み(中略)清は愍侯の洪を生み、楚に滅ぼされた。
※ちなみにまだ氏は薛になっておらず、任姓のままです。
あまりにだらだらと人名を書き連ねるばかりなので中略してしまいました。
実は、『春秋』に幾人か薛伯が登場するのですが、この世系表とは全く符合しません。
そんなでたらめな系図を一々書くのも面倒だったんです。
代わりに『春秋左伝』の薛伯を紹介します。
『春秋左伝』では薛の君主として
献公穀、襄公定、君比、恵公夷
の四人の記録があります
献公穀
《昭公三十一年》
夏,四月,丁巳,薛伯穀卒。
注:薛伯穀卒,同盟故書。
秋,葬薛獻公。訳:夏、四月丁巳、薛伯の毅が亡くなった。
注:薛伯の穀が亡くなった、魯と同盟しているので、記したのである。
秋、薛の献公を葬った。
襄公定
《定公十二年》
十有二年,春,薛伯定卒。
夏,葬薛襄公。訳:十二年、春、薛伯定が亡くなった。
夏、薛の襄公を葬った。
君比
《定公十三年》
薛弒其君比。訳:薛では君主の比を殺した。
恵公夷
《哀公十年》
薛伯夷卒。
秋,葬薛惠公。訳:薛伯の夷が亡くなった。
秋、薛の恵公を葬った。
宰相世系表に限らず、楚に滅ぼされたと書いてあるものが多いんだけど
その後、薛には斉の田嬰(孟嘗君の父)が封じられてるから斉に滅ぼされたんじゃないかとも思う。
wikipediaの中文記事だと
前418年,齊國乘機將薛國佔領。
と書いてある。ただし出典不明。竹書紀年かなんかに書いてあるんだろうか・・・?
さらに系譜は続く
公子登仕楚懷王為沛公,不仕,隱於博徒,因以國為氏,所謂薛公也.
生雲,雲生卬,卬生倪,為楚令尹.倪生翁,翁生鑒,漢初獻策滅黥布,封千戶侯.訳:公子の登は楚の懐王によって沛公とされたが、仕えず、博徒として身を隠した。
そして国名の薛を氏とした。いわゆる薛公である。
雲を生み、雲は卬を生み、卬は倪を生み、倪は楚の令尹となった。
倪は翁を生み、翁は鑒を生み、鑒は漢のはじめ、黥布を滅ぼす策を献じ、千戸侯に封じられた
遂に薛が氏となりました!(長かった・・・)
ここで楚の懐王が出てくるところを見ると、やっぱり楚に滅ぼされた?
或いは、薛は斉に滅ぼされて、薛の人々が楚に亡命したのかもしれない。
出てきた人物を少し考察
薛公という人物は、魏公子列伝に登場している。
魏公子列伝では薛公は漿(酸っぱい飲み物)を売って身を隠していたという。
(博徒として身を隠していたのは薛公とともにでてくる毛公である。)
次に薛鑒なる人物が登場している。
史記や漢書には薛鑒という名前は登場しない。
しかし薛公という人物が黥布を滅ぼす策を献じている。(『史記』黥布伝など)
彼は千戸に封じられているし、同人と見て間違いない。
鑒という名前はどっからきたんだろう。
魏公子の方の薛公と名前がかぶるから勝手に名付けたんだろうか・・・
ものすごく長くなってしまったorz
やっと漢に入ったところで続きは次回。