雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

薛氏系譜再考

あらゆる意味でネタになる『新唐書』宰相世系表。
何度も薛氏の系譜はネタにしたことがあったがまた今回も。
どんだけ薛氏が好きなのか。ていうか誰が得するんだろう。薛蘭好きとかこの世にいるのか???
\ここにいるぞ/

新唐書』巻七十三、宰相世系表、薛氏
(前略)文伯生東海相衍,衍生兗州別駕蘭,為曹操所殺。子永,字茂長,從蜀先主入蜀,為蜀郡太守。永生齊,字夷甫,巴、蜀二郡太守,蜀亡,率戶五千降魏,拜光祿大夫,徙河東汾陰, 世號蜀薛。二子:懿、始。懿字元伯,一名奉,北地太守,襲鄢陵侯。三子:恢、雕、興。恢一 名開,河東太守,號「北祖」;雕號「南祖」;興,「西祖」。雕生徒,徒六子:堂、暉、推、煥、渠、 黃。堂生廣,晉上黨太守,生安都。

下線部のみ訳
兗州別駕の薛蘭は曹操に殺された。その子の薛永は字を茂長といい、劉備に従って入蜀し、蜀郡太守。薛永の子の薛斉は字を夷甫といい、巴郡、蜀郡の太守となった。蜀が滅ぶと五千戸を率いて魏に降り、光禄大夫を拝命、河東汾陰に移り住んで、蜀薛と号した。二子、薛懿・薛始。薛懿は字元伯、一名奉、北地太守であり、鄢陵侯に封ぜられた。

毎度おなじみの薛蘭。
呂布に協力した兗州別駕であり、また清流派で、山陽の八俊の一人でもあった。
さて、宰相世系表ではその子の薛永が蜀の劉備に仕えたという。
『北史』には次のような話がある。

『北史』薛弁伝、附薛聡伝
帝曾與朝臣論海内姓地人物,戲謂聰曰:「世人謂卿諸薛是蜀人,定是蜀人不?」聰對 曰:「臣遠祖廣德,世仕漢朝,時人呼為漢。臣九世祖永,隨劉備入蜀,時人呼為蜀。臣今事 陛下,是虜非蜀也。」帝撫掌笑曰:「卿幸可自明非蜀,何乃遂復苦朕。」聰因投戟而出。帝曰: 「薛監醉耳。」其見知如此。

訳:
北魏の孝文帝は朝臣たちと、国内の諸姓の人物を論じた際に、たわむれに薛聡に言った。「世間の人々は薛氏は蜀人だと言っているが、そこんとこどうなん?」薛聡はこう答えた。「私の遠い祖先の薛広徳は漢朝に仕え、当時の人は“漢”と呼びました。私の九世の祖先の薛永は劉備に従って入蜀し、当時の人は“蜀”とよびました。私は今、陛下に仕えております。虜(えびす)であって蜀ではありません。」帝は手を叩いて笑った。「きみは自分で蜀ではないことを明らかにできたのに、なんでさらに朕を苦しめるのだ(笑)」*1薛聡は戟を投げて退出した。帝は「薛聡は酔っていただけだ」帝に気に入られぶりはこのようであった。

北魏の皇帝に面と向かって「えびす」と言えるとかものすごい。
とまあ、北魏の時点で、薛氏には薛永という人物が劉備に仕えたという話が伝わっていたようだ。


世系表には薛氏が蜀から河東汾陰に移り住んだという話がある。世系表では薛永の子薛斉のとき、蜀漢滅亡後のこととする。
しかし、唐の韓愈の『唐故朝散大夫越州刺史薛公墓誌銘』および同じく唐の元慎『唐故越州刺史兼禦史中丞浙江東道觀察等使贈左散騎常侍河東薛公神道碑』
ではともに晋の安西将軍薛懿の時のこととしている。
世系表では薛懿は薛斉の子とされている。晋代で司馬懿の諱「懿」をおかすのは……。


また似たような話が『資治通鑑』にある。

資治通鑑』巻一百四十、斉紀六、明帝建武三年
衆議以薛氏為河東茂族。帝曰:「薛氏,蜀也,豈可入郡姓!」直閣薛宗起執戟在殿下,出次對曰:「臣之先人,漢末仕蜀,二世復歸河東,今六世相襲,非蜀人也。伏以陛下黄帝之胤,受封北土,豈可亦謂之胡邪!今不預郡姓,何以生為!」乃碎戟于地。帝徐曰:「然則朕甲、卿乙乎?」乃入郡姓,仍曰:「卿非『宗起』,乃『起宗』也!」

訳:
人々は薛氏を河東の有力氏族にしようと議した。北魏の孝文帝は言う。「薛氏は蜀の人である、郡姓(郡姓については後述)に入れてよいものだろうか。」薛宗起は答えて言った。「私の先祖は漢末に蜀に仕えて、二代後にまた河東に帰属しました。今それから六代を経ており、蜀人ではありません。陛下は黄帝の子孫ですが、(もともとはその子が)北土に封ぜられたものです。*2これを胡(えびす)と言って良いものでしょうか」(後略)

『隋書』経籍志によると、「郡姓」とは北魏代の中国の士人たちの等級のひとつであるそうだ。
深読みすると、薛氏を「蜀」であるとして「郡姓」に入れることに反対する、というのは、薛氏が蜀の異民族出身であり、漢民族ではないというものにもよみとれる。


ここまで見て来たが、蜀に仕えた薛永の話はあっても、薛永がどこの出身かは書かれていない。
また、薛蘭と薛永の関係も世系表にしか書かれていない。
薛聡が漢代の薛広徳と結びつけ、漢人であることを強調したり、薛永が劉備に従って「入蜀」したという表現を使って、他の地方から蜀に移り住んだというニュアンスを出してるのが逆に怪しく感じる。
世系表のもとになった書物は逆に薛氏非異民族説を強調するために書かれたって可能性もあるんじゃなかろうか。


なんだかよくまとまらない記事になってしまった。
とりあえず世系表に蜀に仕えた薛永がでてくるけど北魏の時点で伝承されていたということだけわかればいいや。実在したかは不明だけど。

*1:虜(えびす)と言って北魏鮮卑であることを揶揄したことに対しての言

*2:北魏鮮卑族の一種拓跋部、かれらは黄帝の子が大鮮卑山に封ぜられたのにはじまるとする