雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

秦真と曹真

『古今図書集成』 明倫彙編氏族典、第一巻
獻帝建安二十 年,曹操改秦真姓曹氏。

曹真が「曹」という姓をもらって秦真から曹真になったのが建安二十年*1なのだという。


曹真は『三国志』では曹操の一族の曹邵の子とされている一方で、注に引かれた『魏略』では曹操の友人、秦伯南の子で、伯南が曹操を助けて死んだ後、曹操の子と一緒に養われたとする。
陳寿はいろいろと事実を隠しながら『三国志』を書いているので、今回もまた曹真が秦氏の出であることを隠そうとしたのだろう。動機はようわからん。


隋のころに、こんな話がある。

『隋書』巻六十六、鮑宏伝
時有尉義臣者,其父崇不從尉迥,後復與突厥戰死。上嘉之, 將賜姓為金氏,訪及羣下。宏對曰:「昔項伯不同項羽,漢高賜姓劉氏,秦真父能死難,魏武 賜姓曹氏。如臣愚見,請賜以皇族。」高祖曰:「善。」因賜義臣姓為楊氏。

尉遅義臣という人がいて、その父が突厥と戦い戦死した。皇帝は金という姓を賜おうとしたが、鮑宏がこう言った。「昔項伯は項羽に同調しなかったので、漢の高祖は劉という姓を賜い、秦真の父は難に死したため魏武(曹操)から曹の姓を賜った。皇族の姓を賜うべきでしょう。」結局尉遅義臣には皇帝の姓である楊が与えられた。


とまあ、このように、隋代には曹真が父の功績で曹の姓を賜り秦真から曹真になった代表格とみなされていたわけである。
おそらく曹邵は秦邵、字を伯南というのだろう。
字と名の対応に関して言えば「邵南」とは『詩経』の国風の一篇である。
秦真が曹の姓を賜った後に秦邵も曹邵となったと思われる。


どうでもいいけどこういう風に他家から曹操に養われた人として何晏なんかも思い出すなあ。
曹真の子曹爽と何晏が密接な関係だったのもこういう出自に関係してそう。
曹爽が失脚した背景にももともとは曹氏の出じゃないってことで反発があったのかも。
曹叡も同じように他家かr
???「お薬の時間だね(ニッコリ」

*1:二十の後の空白は欠落かもしれない。二十○年ということか。