雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

淳于氏改姓

昨日は更新できなかったが、覆水盆に返らないので仕方ない。

旧唐書』巻十四 憲宗本紀
壬寅,改淳州為巒州,還淳縣為清溪縣,淳風縣為從化縣,姓淳于者改姓于。

唐の憲宗は名前が「純」であり、避諱のため同音の「淳」も改めさせた。
それによって、淳于氏は于氏に改姓させられてしまったという。


淳于瓊の子孫も于氏になっていたかもしれない。

郷と戸口簿

天長西漢墓から出土した竹簡「戸口簿」に次のようにある。

戸凡九千一百六十九少前,口四萬九百七十少前。
郷戸千七百八十三,口七千七百九十五
郷戸二千三百九十八,口萬八百一十九
楊池郷戸千四百五十一,口六千三百廿八
鞠(?)郷戸八百八十,口四千五
垣雍北郷戸千三百七十五,口六千三百五十四
垣雍東郷*1戸千二百八十二,口五千六百六十九。
http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=488

河南郡巻県に属する郷の戸籍や人口を記したものであり、表にまとめると次のようになる。*2

戸数 人口
東郷 1,783戸 7,795人
都郷 2,398戸 10,819人
楊池郷 1,451戸 6,328人
鞠(?)郷 880戸 4,005人
垣雍北郷 1,375戸 6,354人
垣雍東郷 1,282戸 5,669人
9,169戸 40,970人


県下の郷の構成がわかる貴重な資料である。
ほかの漢墓からも戸口簿がみつかっているっぽいので、いろいろな戸口簿を研究することで、郷のことについてはもっとわかるようになるかもしれない。
どうでもいいが、『水経注』巻二十三に引く『郡国志』によると巻県には垣雝(雍)城があったとのことであり、垣雍北郷、垣雍東郷はその城内を二郷に分けていたということだろうか。

*1:垣雍南郷とみる釈文もある。

*2:リンクにもっと詳細なもの有

都郷その2

昨日ひよこさんが次のように言っていた。

県というのは、A郷・B郷・C郷といった郷を集めた単位(あるいは一つの城郭都市を複数の郷に区切る)で、その中心となる郷の名前を取って(あるいは新たに命名して)A県とする。その郷が都郷かな、と

これをふまえて『後漢書』梁冀伝を見ると

後漢書』列伝第二十四 梁統伝 附 梁冀伝
使光祿勳袁盱持節收冀大將軍印綬,徙封比景都郷侯。

梁冀は比景都郷侯に封ぜられている。
顧炎武先生は、ここを引用し、都郷侯とだけ書かれることが多い都郷侯にも封地名がついており、本来は○○都郷侯となっていたはずだといっている。*1
梁冀は比景都郷というに封ぜられたということである。

後漢書』皇后紀第十下 安思閻皇后紀注
比景,縣名,屬日南郡。

比景都郷の属する県は比景県であり、これは実際に、都郷の名前が県の名前になっている一例である。*2
これはひよこさんの言の裏付けの一つとなるはず。

*1:『日知録』巻二十二 都郷侯

*2:単純に比景(県の)都郷という意味かもしれないけど

都郷

『日知録』巻二十二 都郷
集古録、宋宗愨母夫人墓誌「涅陽縣都郷安衆里人。」又云「窆于秣陵縣都郷石泉里。」都郷之制、前史不載。按「都郷」、蓋即今之「坊厢」也。漢濟陰太守孟郁堯廟碑「成陽仲氏屬都郷高相里。」

顧炎武先生が都郷について次のように述べている。
宋の墓誌に「涅陽県都郷安衆里人」、「秣陵県都郷石泉里」、漢代の碑に「成陽仲氏属都郷高相里」とある。
都郷は清代の「坊厢」のようなものであるだろうとのこと。


坊は城中、厢は城の近くの市街を指すようである。
都郷の名称は○○郷ではなく○○里であらわされるんやね。
都郷は今でいう県庁所在里って感じ?
漢代の地方制度は郡>県>郷だが、郷というのは地方区分であって、名称的には郡>県>里なんですかね。


追記)
間違えました!
郡>県>郷>里ですね!
都郷の中の地区に安衆里だとか石泉里があるということなのですね。

更新できない!

SteamでTOTAL WAR:ROME2が75%オフだったので購入したら、ダウンロードにあと4時間半かかるとのこと。
ネットワーク使うとダウンロード時間がさらに増加しそうなので、今日はブログ更新厳しそう。
いやー残念だなー、蜀漢の封爵表作ろうと思ってたのに、いやー残念。

関羽の印

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上の関羽動画を見たので関羽ネタを。

『蜀中広記』
雲谷雜記紹興中洞庭漁人獲一印方僅二寸其制甚古紐有連環四兩兩相貫上有一大環總之葢所以佩也漁者以為金競而訟于官辨其文乃壽亭侯印四字闗侯嘗封於漢壽亭疑必侯物遂留長沙官庫守庫吏見印上時有光焰因白于官乃遣人送荊門軍侯祠中光怪遂絕容齋隨筆云復州寳相院以建炎二年因伐木於三門大樹下土中深四尺餘得一印其環并背俱有文云漢建安二十年壽亭侯印今留於左藏庫邵州守黃沃叔啟慶元二年複買一紐於郡人張氏其文正同只欠五絲環耳予以謂皆非真漢物且漢壽乃亭名既以封雲長不應去漢字又其大比它漢印幾倍之聞嘉興王仲言亦有其一侯印一而已安得有四雲長以四年受封當即刻印不應在二十年尤非也是特後人為之以奉廟祭其數必多今流落人間者尚如此予今歲在渝州武陵楊進士文弱以廣文分考蜀闈事竣見過損惠漢章方寸文曰闗小侯印

明の曹学佺の『蜀中広記』にある話。(以下抄訳)
宋の張芾の『雲谷雑記』によると、南宋紹興年間に洞庭湖の漁師が一つの印璽を発見した。
印面には「寿亭侯印」とあり、漢寿亭に封じられた関羽のものではないかと疑われた。
結果、長沙の官庫に収められた。倉庫番の役人が印を見ると、光と焔をあげたため、関羽を祀る荊門軍侯祠に送ると、光はやんだという。
また、宋の洪邁の『容齋隨筆』には建炎二年に大樹の下の地中から一つの印が発見され、「漢建安二十年寿亭侯印」と刻んであった。
それから約70年後、邵州守の黄沃が慶元二年に一つの印を買った。そこにも同じ文が刻まれていた。
これらはすべて漢の物ではない。漢寿は関羽が封じられた亭の名前であって、漢の字を取り去るべきではないし、また、サイズも漢の印の数倍である。
嘉興の王仲もまた一つの関羽の印を持っているというが、侯の印は一つであるはずであるのに、なぜ4つも見つかっているのか。
漢より後の時代の人が、廟に祀るために数多く作り、それらが世間に流通しているのである。


関羽の廟に祀るために関羽のものとされる「寿亭侯印」が数多く作られていたという。
私も今度作ってどっかに埋めてみようかな!

何進の佞臣

『群書治要』巻四十六 典論
何進滅於呉匡,張璋,袁紹亡於審配,郭圖,劉表昏於蔡瑁,張允。孔子曰:佞人殆,信矣。古事已列於載籍,聊復論此數子,以為後之監誡,作奸讒。
中平之初,大將軍何進,弟車騎苗,并開府,近士呉匡,張璋,各以異端有寵於進,而苗惡其為人,匡璋毁苗而稱進,進聞而嘉之,以為一於己,後靈帝崩,進為宦者韓悝等所害,匡,璋忌苗,遂劫進之衆,殺苗於北闕,而何氏滅矣。昔鄭昭公殺於渠彌,魯隱公死於羽父,苗也。能無及此乎。夫忠臣之事主也。尊其父以重其子,奉其兄以敬其弟。故曰:愛其人者,及其屋鳥,况乎骨肉之間哉。而進獨何嘉焉。

曹丕が著した典論に、佞臣についての記述があり、袁紹における審配、郭図、劉表における蔡瑁、張允とともに何進については呉匡、張璋が佞臣として挙げられている。
呉匡、張璋は何進の部曲将で、何進が殺害された後に、弟の何苗が宦官と内通していたと疑い殺害した。
また、呉匡は蜀の呉班の父である。


典論の中では、呉匡、張璋について次のように書いている。
呉匡、張璋は何進の寵愛を受けていたが、何苗に人となりを悪まれていた。
呉匡、張璋は何苗をそしり何進を褒め称え、何進はそれを良しとしていた。
霊帝崩御し、何進が宦官に殺害されると、呉匡、張璋は何苗を憎み、何進の兵を率いて何苗を殺し、何氏は滅んだのである。
昔鄭の昭公が高渠弥に殺され、魯の隠公が羽父(公子翬)に殺されたのは苗である。ここにおよぶものはない。((うまく訳せない。
そもそも忠臣が主に仕えるは、その父を尊び、その子を重んじ、その兄を奉り、その弟を敬うものである。
ゆえにいわく、その人を愛するとその愛は家の鳥にもおよぶものであり、骨肉の間においては言うに及ばずである。どうして何進は彼らの言をよしとしてしまったのだろうか。


曹丕の時代には今では残っていない同時代の史料やら、伝聞などがいろいろあったのだろう。
審配や郭図、蔡瑁や張允などは現在でも佞臣的なイメージを持たれていることが多いが、当時は呉匡、張璋がその類との印象を持たれていたのである。