雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

劉表の墓

『水経注』巻二十八「沔水」
城東門外二百步劉表墓,太康中為人所發見,表夫妻其屍儼然,顏色不異,猶如平生。墓中香氣遠聞三四里中,經月不歇。

襄陽の故城の東門から二百歩(約300メートル)のところに劉表の墓があり、晋の太康年間に発見された。
劉表夫妻の屍は厳然とし、顔色は変わらず、生きているようであった。
墓の中の香りは3〜4里(約1.7キロメートル)先まで届き、月日が立っても枯れることはなかった。


劉表の遺体はかなり保存状態が良かったようである。
荊州のあたりって、今でも結構保存状態の良い墓とか見つかってるような気がするし、*1湿度や温度といった気候や環境がいいのかもしれない。

*1:ちょっと遠いけど長沙馬王堆とか

凌氏

凌統の子孫について書かれてたのでメモ

『元和姓纂』巻五 「凌」
衛康叔支子為周凌人、子孫以官為姓。呉志有都督凌統。晋有凌嵩。
【餘杭】凌統世居餘杭、二子、烈、封。八代孫嵩、晋広陵太守。貞元都官員外凌準、杭州人、云其後也。
【管城】唐魏王文学凌敬、云統後、世居鄭州

凌氏は衛康叔の子が周代に凌人という役職に就き、その官をとって姓としたという。
餘杭の凌氏は凌統の子孫であり、凌烈と凌封の二子がいる。八代の孫が晋の広陵太守凌嵩、また唐の都官員外の凌準はその後裔である。
管城に唐の魏王文学の凌敬がおり、これも凌統の後裔という。


凌統は本当はさんずいの淩だけど『元和姓纂』では凌氏とされている。
凌嵩は事績不明だが『萬姓統譜』では晋の諮議參軍と書かれている。
凌準は柳宗元らとともに王叔文の改革派に属したが、政争に敗れ左遷されている。
また、柳宗元に墓誌を書いてもらっている。
凌敬は隋末の群雄竇建徳の謀士である。

姜維と閻圃の子孫

『太平広記』画二 所引『大唐新語』
閻立本為右丞相,姜恪以邊將立功為左相。又以年飢,放國子學生歸,又限令史通一經。時人為之語曰。左相宣威沙漠,右相馳譽丹青。三舘學生放散。五臺令史明經。

新唐書』巻一百 閻立徳、立本伝
既輔政,但以應務俗材,無宰相器。時姜恪以戰功擢左相,故時人有 「左相宣威沙漠,右相馳譽丹青」之嘲。

初唐の頃の話。宰相である右相と左相にそれぞれ閻立本と姜恪が就任した。
閻立本は画家として有名であるが、宰相の器にはなかった一方、姜恪は辺境の軍事で功を立てていたことから、人々は『千字文』の「宣威沙漠、馳誉丹青(威名を辺境の沙漠に宣揚し、絵画に描かれ名誉を馳せる)」をパロって、「左相宣威沙漠、右相馳譽丹青(左相姜恪が威名を辺境の砂漠に宣揚し、右相の閻立本がその名誉を絵に描く)」*1と嘲られたという。


さて、その閻立本、『新唐書』宰相世系表によると、張魯の功曹、閻圃の子孫であり、また姜恪は姜維の子孫であるという。
世系表の信憑性についてはとりあえず措くとして、三国志で活躍した人物の子孫が、同時に宰相になっているとは面白い。

*1:解釈間違ってるかも

蜀漢の姜太師と父

太平広記に蜀漢の話としてこんな話が引かれていた。

『太平広記』雑録八所引『王氏見聞』
蜀有姜太師者,失其名,許田人也,幼年為黄巾所掠,亡失父母。從先主征伐,屢立功勳。後繼領數鎮節鉞,官至極品。有掌厩夫姜老者,事芻秣數十年。姜每入厩,見其小過,必笞之。如是積年,計其數,將及數百。後老不任鞭箠,因泣告夫人,乞放歸郷里。夫人曰:「汝何許人。對曰:「許田人。」「復有何骨肉。對曰:「當被掠之時,一妻一男,迄今不知去處。」又問其兒小字,及妻姓氏行第,並房眷近親,皆言之。及姜歸宅,夫人具言,姜老欲乞假歸郷,因問得所失男女親屬姓名。姜大驚,疑其父也,使人細問之:「其男身有何記驗。曰:「我兒脚心上有一鄢子。餘不記之。姜大哭。密遣人送出劒門之外。奏先主曰:「臣父近自關東來。」遂將金帛車馬迎入宅,父子如初。姜報撻父之過,齋僧數萬,終身不撻從者。出《王氏見聞》

適当訳
蜀漢に姜太師とよばれる者がいた。名は不明だが許田(漢代は許昌)の人であった。若くして黄巾の乱に遭い、父母を失った。先主劉備に従い、しばしば功を立て、複数地区を領し、官位を極めた。
彼の厩に姜老という者がいた。姜太師はしばしば彼を鞭うったが、それが数百に及んだ時に、姜太師の妻に郷里に帰らせてほしいと申し出た。
妻が郷里を訊ねると姜老は許田と答え、また肉親はいるのかとの問いには、乱によって妻と子が行方不明となったとの返答であった。さらに、その子の幼名や妻の名字などについても話した。
姜太師が帰宅すると妻はそれらを伝えた。姜太師は驚き、自分の父ではないかと思い、人をやって詳細に訊ねた。身体的特徴なども話したため、姜太師は大いに泣き、密かに城門の外に出した。
そして、劉備に私の父が関東から来ますと奏上し、豪華な車馬で自宅に迎え入れ、(離れ離れになってから)初対面のように装った。
姜太師は父を知らずに鞭うったことを反省し、二度と従者を鞭打つようなことをしなかったという。

要するに鞭うってた奴隷が実は生き別れの父だったという話。
まあ蜀の高官に許昌の姜なんたらはいなかった気がするので、創作か民間伝承の類だろうと思われる。ソースが王氏見聞録だし。

曹洪の家業

『太平広記』巻第四百三十五 畜獣二 所引王子念『拾遺記』
曹洪武帝從弟,家盈産業,駿馬成群。武帝董卓,夜行失馬,洪以其所乘馬曰白鶴,與武帝乘。此馬走,唯覺耳中風聲,脚似不踐地。至深水,洪不能得渡。武帝引首。上馬,共濟深水,行數百里,瞬息而至。下視馬足。毛皆不皆不濕,帝衣猶沾濡。時人謂乘風行也,為一代神駿。諺云。憑空虚躍,曹家白鶴。

太平広記に引かれた曹洪の愛馬「白鶴」の話。
まるで宙に浮いているような走りで、川を走っても足の毛は濡れていなかったとか。


それは本題ではなく、前半に「家は産業に盈ち、駿馬が群を成す」とある。
曹洪が金持ちだったことはよく知られているが、群をなすほどの駿馬であふれた家であったのである。
曹操の挙兵時には曹洪の馬が提供されたのだろう。

過去記事傑作選

ブログの過去の記事を見直してみると、書いたことを忘れているものが多々あった。
そこで、記憶の復旧とブログ再開記念も兼ねて過去の記事の中からそれなりに評判の良かったものや、気に入っているものを紹介することとする。
決して手を抜きつつ更新数を稼ごうとしているわけではない。


陳珍(2009/9/19)
出オチであるが、このブログの原点ともいえる潔さがあった。


金禕の胡婢(2009/9/22)
このブログの主人公ともいえる王必の悲恋の物語(妄想)、当時行われた三国志ブロガーたちの王必強化月間によって王必の知名度はあがった(はず)
発売予定日が延期して私の誕生日になったコーエーテクモ三國志13ではきっと登場して私を祝ってくれることでしょう。まあPK待ちだけど


陳陳丁(2011/4/22)
子が陳寿に贈賄せず立伝されなかったのは魏の丁儀ではなく呉の司徒丁固であったという話。今まで言われていた話を覆すことができたことに感動した。


陳到の領兵(2012/3/10)
陳到が領していた兵についての記述を発見。記述の少ない武将好きとしては新情報がうれしかった。


内川コピペ改変「姜維コピペ」(2012/5/20)
ネット掲示板ネタの内川コピペを、主人公を姜維に改変した。案外うまく作れて気に入っている。(自賛)


『韓玄墓記』多分全文テキスト(2012/7/4)
みんな大好き長沙太守韓玄についての清人の文章を翻訳。史書にない韓玄の生涯についての情報をもたらしてくれる。
記述の少ない武将好きとしては楽しい。


高順騎将説への疑義(2012/10/6)
高順についての定説を覆し、陥陣営を解釈し直した記事。


益州と興平改元(2012/10/16)
益州では興平への改元が浸透せず、初平が使われ続けていた可能性について言及。
益州に関する史料中の「初平」の指す時期は注意が必要かもしれないという記事。


李傕政権の上軍校尉(2013/1/26)
李傕の従弟が西園八校尉のトップ、上軍校尉となっていた可能性がある。記述の少ない官職好きとしては垂涎モノ。


劉備の故郷、楼桑村(2013/3/10)
劉備の故郷が楼桑村というのを創作だと思っていたら、ちゃんと当時から実在していたことがわかってびっくりぽんやったわ。


中国史全文検索系サイト、三国時代関係用(2013/5/13)
在野にて三国志を研究する人が増えたらいいなと願いを込めて作った記事。ぜひ活用してください。


三国関係者の干支(2013/5/16)
三国志の人物たちの生年から干支を調査した。当時ツイッターで結構拡散された。おそらくこのブログで一番読まれた記事ではなかろうか。
これに満足してブログの更新頻度が下がったとか下がらなかったとか。
そしてコメントに謎の予言がつくというオチもついた。



以上、厳選12記事でした。
こう振り返ると、このブログは開設してもう6年もたったのか……。
始めた時は10歳だった私も今や16歳です^^
今後とも王必、記述の少ない武将、応劭好きとして日々精進していきますので、様々な誤謬、駄文、下ネタ、かわいい嘘は若気の至りとしてお許しください(*'▽')