雲子春秋

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蜀漢の姜太師と父

太平広記に蜀漢の話としてこんな話が引かれていた。

『太平広記』雑録八所引『王氏見聞』
蜀有姜太師者,失其名,許田人也,幼年為黄巾所掠,亡失父母。從先主征伐,屢立功勳。後繼領數鎮節鉞,官至極品。有掌厩夫姜老者,事芻秣數十年。姜每入厩,見其小過,必笞之。如是積年,計其數,將及數百。後老不任鞭箠,因泣告夫人,乞放歸郷里。夫人曰:「汝何許人。對曰:「許田人。」「復有何骨肉。對曰:「當被掠之時,一妻一男,迄今不知去處。」又問其兒小字,及妻姓氏行第,並房眷近親,皆言之。及姜歸宅,夫人具言,姜老欲乞假歸郷,因問得所失男女親屬姓名。姜大驚,疑其父也,使人細問之:「其男身有何記驗。曰:「我兒脚心上有一鄢子。餘不記之。姜大哭。密遣人送出劒門之外。奏先主曰:「臣父近自關東來。」遂將金帛車馬迎入宅,父子如初。姜報撻父之過,齋僧數萬,終身不撻從者。出《王氏見聞》

適当訳
蜀漢に姜太師とよばれる者がいた。名は不明だが許田(漢代は許昌)の人であった。若くして黄巾の乱に遭い、父母を失った。先主劉備に従い、しばしば功を立て、複数地区を領し、官位を極めた。
彼の厩に姜老という者がいた。姜太師はしばしば彼を鞭うったが、それが数百に及んだ時に、姜太師の妻に郷里に帰らせてほしいと申し出た。
妻が郷里を訊ねると姜老は許田と答え、また肉親はいるのかとの問いには、乱によって妻と子が行方不明となったとの返答であった。さらに、その子の幼名や妻の名字などについても話した。
姜太師が帰宅すると妻はそれらを伝えた。姜太師は驚き、自分の父ではないかと思い、人をやって詳細に訊ねた。身体的特徴なども話したため、姜太師は大いに泣き、密かに城門の外に出した。
そして、劉備に私の父が関東から来ますと奏上し、豪華な車馬で自宅に迎え入れ、(離れ離れになってから)初対面のように装った。
姜太師は父を知らずに鞭うったことを反省し、二度と従者を鞭打つようなことをしなかったという。

要するに鞭うってた奴隷が実は生き別れの父だったという話。
まあ蜀の高官に許昌の姜なんたらはいなかった気がするので、創作か民間伝承の類だろうと思われる。ソースが王氏見聞録だし。