雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

劉表の知られざる功績

芸文類聚』巻五十九 武部 戦伐 所引、王粲『三輔論』
湘潛先生,江濱逸老,將集論雲夢,玄公豫焉。先生稱曰:蓋聞戎不可動,兵不可揚,今劉牧建紱垂芳,名烈既彰矣。曷乃稱兵舉眾,殘我●零。逸老曰:是何言與,天生五材,金作明威,長沙不軌,敢作亂違,我牧睹其然,乃赫爾發憤,且上征下戰,去暴舉順,州牧之兵,建拂天之旌,鳴振地之鼓,玄冑曜日,犀甲如堵,以此眾戰,孰能嬰御,劉牧之懿,子又未聞乎。履道懷智,休跡顯光,洒掃群虜,艾撥穢荒,走袁術於西境,馘射貢乎武當,遏孫堅於漢南,追楊定于析商。

芸文類聚』に引かれた王粲の『三輔論』の中に劉表の武功について書かれており、
袁術を西境に敗走させ、射貢を武当にて首切り、孫堅を漢南に押しとどめ、楊定を析商に追う」とある。
袁術孫堅との戦いは三国志にもあるが、射貢、楊定との戦いについては、管見の限り見つからない。


そもそも射貢って誰?
武当は南陽郡であり、南陽謝氏はそれなりに勢力があるため、射貢ではなく謝貢の可能性もある。
あるいは、扶風の射堅、射援兄弟が三輔の乱を避け、益州に逃れた話が『三国志』先主伝注にあるが、射貢はその一族*1で、当初荊州に逃れようとしたが、劉表に拒まれ死亡し、射堅と射援が益州入りしたという可能性もあるかもしれない。


また楊定は段煨との対立のあと荊州に逃れ、その後の記述はなかったが、劉表に阻まれたということになる。
南陽郡に析、商という地名があり、そこのことだろうか。


簡単な記述しかなく、詳しいことはよくわからないが、マイナー武将好きとしては楊定のその後について少し情報が得られたのは収穫であった。
何かさらなる情報があれば教えてください。

*1:父親とか