記されぬ封侯
『後漢書』列伝第二十一 羊続伝
中平三年,江夏兵趙慈反叛,殺南陽太守秦頡,攻沒六縣,拜續為南陽太守。當入郡 界,乃羸服輭行,侍童子一人,觀歷縣邑,採問風謠,然後乃進。其令長貪?,吏民良猾,悉 逆知其狀,郡內驚竦,莫不震懾。乃發兵與荊州刺史王敏共擊慈,斬之,獲首五千餘級。
黄巾の乱後に起きた中平三年の江夏兵趙慈の反乱、それを鎮圧した荊州刺史の王敏。
『後漢書』には書かれていないが封侯されていたらしい。
『水経注』巻十二 聖水
聖水又東逕勃海安次縣故城南,漢靈帝中平三年,封荊州刺史王敏為侯國。又東南流注于巨馬河,而不達于海也。
『水経注』には中平三年に安次県に王敏を封じて侯国としたとある。
反乱鎮圧の功績で封侯されたのだろう。
県侯であるにも関わらず『後漢書』には記されていない。
郷と戸口簿
天長西漢墓から出土した竹簡「戸口簿」に次のようにある。
戸凡九千一百六十九少前,口四萬九百七十少前。
東郷戸千七百八十三,口七千七百九十五
都郷戸二千三百九十八,口萬八百一十九
楊池郷戸千四百五十一,口六千三百廿八
鞠(?)郷戸八百八十,口四千五
垣雍北郷戸千三百七十五,口六千三百五十四
垣雍東郷*1戸千二百八十二,口五千六百六十九。
http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=488
河南郡巻県に属する郷の戸籍や人口を記したものであり、表にまとめると次のようになる。*2
郷 | 戸数 | 人口 |
---|---|---|
東郷 | 1,783戸 | 7,795人 |
都郷 | 2,398戸 | 10,819人 |
楊池郷 | 1,451戸 | 6,328人 |
鞠(?)郷 | 880戸 | 4,005人 |
垣雍北郷 | 1,375戸 | 6,354人 |
垣雍東郷 | 1,282戸 | 5,669人 |
計 | 9,169戸 | 40,970人 |
県下の郷の構成がわかる貴重な資料である。
ほかの漢墓からも戸口簿がみつかっているっぽいので、いろいろな戸口簿を研究することで、郷のことについてはもっとわかるようになるかもしれない。
どうでもいいが、『水経注』巻二十三に引く『郡国志』によると巻県には垣雝(雍)城があったとのことであり、垣雍北郷、垣雍東郷はその城内を二郷に分けていたということだろうか。
都郷その2
昨日ひよこさんが次のように言っていた。
県というのは、A郷・B郷・C郷といった郷を集めた単位(あるいは一つの城郭都市を複数の郷に区切る)で、その中心となる郷の名前を取って(あるいは新たに命名して)A県とする。その郷が都郷かな、と
これをふまえて『後漢書』梁冀伝を見ると
梁冀は比景都郷侯に封ぜられている。
顧炎武先生は、ここを引用し、都郷侯とだけ書かれることが多い都郷侯にも封地名がついており、本来は○○都郷侯となっていたはずだといっている。*1
梁冀は比景都郷という郷に封ぜられたということである。
『後漢書』皇后紀第十下 安思閻皇后紀注
比景,縣名,屬日南郡。
比景都郷の属する県は比景県であり、これは実際に、都郷の名前が県の名前になっている一例である。*2
これはひよこさんの言の裏付けの一つとなるはず。
都郷
『日知録』巻二十二 都郷
集古録、宋宗愨母夫人墓誌「涅陽縣都郷安衆里人。」又云「窆于秣陵縣都郷石泉里。」都郷之制、前史不載。按「都郷」、蓋即今之「坊厢」也。漢濟陰太守孟郁堯廟碑「成陽仲氏屬都郷高相里。」
顧炎武先生が都郷について次のように述べている。
宋の墓誌に「涅陽県都郷安衆里人」、「秣陵県都郷石泉里」、漢代の碑に「成陽仲氏属都郷高相里」とある。
都郷は清代の「坊厢」のようなものであるだろうとのこと。
坊は城中、厢は城の近くの市街を指すようである。
都郷の名称は○○郷ではなく○○里であらわされるんやね。
都郷は今でいう県庁所在里って感じ?
漢代の地方制度は郡>県>郷だが、郷というのは地方区分であって、名称的には郡>県>里なんですかね。
追記)
間違えました!
郡>県>郷>里ですね!
都郷の中の地区に安衆里だとか石泉里があるということなのですね。
関羽の印
『蜀中広記』
雲谷雜記紹興中洞庭漁人獲一印方僅二寸其制甚古紐有連環四兩兩相貫上有一大環總之葢所以佩也漁者以為金競而訟于官辨其文乃壽亭侯印四字闗侯嘗封於漢壽亭疑必侯物遂留長沙官庫守庫吏見印上時有光焰因白于官乃遣人送荊門軍侯祠中光怪遂絕容齋隨筆云復州寳相院以建炎二年因伐木於三門大樹下土中深四尺餘得一印其環并背俱有文云漢建安二十年壽亭侯印今留於左藏庫邵州守黃沃叔啟慶元二年複買一紐於郡人張氏其文正同只欠五絲環耳予以謂皆非真漢物且漢壽乃亭名既以封雲長不應去漢字又其大比它漢印幾倍之聞嘉興王仲言亦有其一侯印一而已安得有四雲長以四年受封當即刻印不應在二十年尤非也是特後人為之以奉廟祭其數必多今流落人間者尚如此予今歲在渝州武陵楊進士文弱以廣文分考蜀闈事竣見過損惠漢章方寸文曰闗小侯印
明の曹学佺の『蜀中広記』にある話。(以下抄訳)
宋の張芾の『雲谷雑記』によると、南宋の紹興年間に洞庭湖の漁師が一つの印璽を発見した。
印面には「寿亭侯印」とあり、漢寿亭に封じられた関羽のものではないかと疑われた。
結果、長沙の官庫に収められた。倉庫番の役人が印を見ると、光と焔をあげたため、関羽を祀る荊門軍侯祠に送ると、光はやんだという。
また、宋の洪邁の『容齋隨筆』には建炎二年に大樹の下の地中から一つの印が発見され、「漢建安二十年寿亭侯印」と刻んであった。
それから約70年後、邵州守の黄沃が慶元二年に一つの印を買った。そこにも同じ文が刻まれていた。
これらはすべて漢の物ではない。漢寿は関羽が封じられた亭の名前であって、漢の字を取り去るべきではないし、また、サイズも漢の印の数倍である。
嘉興の王仲もまた一つの関羽の印を持っているというが、侯の印は一つであるはずであるのに、なぜ4つも見つかっているのか。
漢より後の時代の人が、廟に祀るために数多く作り、それらが世間に流通しているのである。
関羽の廟に祀るために関羽のものとされる「寿亭侯印」が数多く作られていたという。
私も今度作ってどっかに埋めてみようかな!