雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

I try contrasting "Hou han shu" with "Dong guan han ji"& "Hou han ji". PART02

後漢書』と『東観漢記』を比べる企画の続き。
さらに『後漢紀』を比べようという恐ろしい思いつきをしてしまった。
手入力が更に面倒に…。web上にテキストはあるんだけど一文字ごとに半角スペースがぁ。
後漢紀』は晋の袁宏が編纂した後漢の通史です。
これも『後漢書』編纂の際には参照されたことでしょう。
また、編纂の順は『東観漢記』→『後漢紀』→『後漢書』なので『後漢紀』も『東観漢記』を参照しているかもしれません。
とりあえず前回取り上げた『後漢書』の部分と『後漢紀』を比べてみる。
後漢紀』は中華書局のものを用います。

後漢書』巻一光武帝
世祖光武皇帝諱秀、字文叔、南陽蔡陽人、高祖九世之孫也、出自景帝生長沙定王發。發生舂陵節侯買、買生鬱林太守外、外生鉅鹿都尉回、回生南頓令欽、欽生光武。

意訳:
光武帝の諱は秀で字は文叔、南陽蔡陽生まれ。高祖から数えて九代目の子孫であり、景帝の子、長沙定王の劉発より出る。
劉発→劉買(舂陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)という系譜である。

後漢紀』巻一光武皇帝紀
孝景帝生長沙定王發。武帝世、諸侯得分封子弟、以冷道縣舂陵封發中子買為舂陵節侯。買生鬱林太守外、外生鉅鹿都尉回、回生南頓令欽、欽生光武皇帝。元帝時、節侯之孫孝侯以南方卑濕,請徙南陽。於是以蔡陽白水郷為舂陵侯封邑、而與從昆弟鉅鹿君及宗親倶徙焉。湖陽人樊重女曰歸都、自為童兒不正容不出於房、南頓君聘焉。生齊武王縯・魯哀王仲・世祖・新野寧平公主。

意訳:
景帝は長沙定王の劉発を生んだ。武帝の治世に、諸侯は子弟を分けて封建することを得*1、冷道県の舂陵に次男の劉買を封じて舂陵節侯とした。劉買→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→光武帝という系譜。
元帝の時、節侯(劉買)の孫の孝侯は、(封地の舂陵が)南方にあり、じめじめしていることから、お願いして南陽に移った。
そこで、蔡陽県白水が舂陵侯の封地となり、いとこの鉅鹿君(鉅鹿都尉劉回)および一族はそこに移った。
湖陽の人、樊重の娘は帰都といい、子供の頃から化粧もせず、部屋に引きこもっていたが南頓君(南頓令劉欽)は彼女を妻として迎えた。
彼女は斉の武王劉縯・魯の哀王劉仲・世祖(光武帝劉秀)・新野寧平公主を生んだ。

後漢紀』には系譜がかなり詳しく書かれており、おそらく『後漢書』は『後漢紀』を参照して系譜を書いたと思われます。


では、前回の振り返り(?)も済んだところで、新たな箇所へ進みます。

後漢書』巻一光武帝
光武年九歳而孤、養於叔父良。身長七尺三寸、美須眉、大口、隆準、日角。
性勤於稼穡、而兄伯升好侠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。
王莽天鳳中、乃之長安、受尚書、略通大義

意訳:
光武帝は九歳で父を失い、叔父の劉良に養われた。身長は七尺三寸で、美しいひげと眉、大きな口、高い鼻、額の中央が隆起していた(高貴の相があった)。
生まれつき農業に勤めていたが、兄の伯升は任侠を好み、士を養っていた。兄は光武帝が農業に勤めていることを嘲笑し、高祖の兄の仲と比べた。
光武帝は)王莽の天鳳年間に長安へ行き、尚書の講義を受講し、だいたいの意味に通じた。

『東観漢記』巻一世祖光武皇帝
是歳鳳皇來集濟陽、故宮皆畫鳳凰。聖瑞萌兆、始形於此。上為人隆準、日角、大口、美鬚眉、長七尺三寸。
在舂陵時、望氣者蘇伯阿望舂陵城曰「美哉!王氣鬱鬱葱葱。」仁智明遠、多權略、樂施愛人。在家重慎畏事、勤於稼穡。
兄伯升好侠非笑上事田作、比之高祖兄。年九歳而南頓君卒、随其叔父在蕭、入小學、後之長安、受尚書於中大夫廬江許子威。
資用乏、與同舎生韓子合錢買驢、令從者僦、以給諸公費。大義略擧、因學世事。

意訳:
この年(光武帝が生まれた建平元年)鳳凰が済陽に集まり、故宮の人は皆鳳凰を描いた。聖瑞の兆しはここで初めて形作られたのである。
上(光武帝)は高い鼻、額の隆起、大きな口、美しいひげと眉(という高貴な相)をもち、身長は七尺三寸であった。
舂陵にいたころ蘇伯阿という占い師が舂陵城を見て「美しい!王の気が盛んだ。」と言った。
仁智は深く、権謀に長け、人に愛を施すのを好んだ。家にいては慎みをもっており、農業に勤めた。
兄の伯升は任侠をこのんで、光武帝が農業に勤めるのを嘲笑し、高祖の兄に比した。
九歳で父の南頓君(劉欽)を失い、蕭にいた叔父に随って小学*2に入り、後に長安に行って中大夫、廬江の許子威から尚書の学問を受けた。
資金が乏しくなると、同じ宿舎の韓子と金を合わせて驢馬を買い、従者に貸させ(驢馬のレンタル業?)、諸々の費用をまかなった。
尚書にだいたい通じたため、世情のことを学んだ。

後漢紀』巻一光武皇帝紀
世祖諱秀、字文叔。初、南頓君為濟陽令、而世祖生、夜有赤光、室中皆明。使卜者筮之曰:「貴不可言。」是歲、嘉禾生、縣界大熟、因名曰秀。為人隆準、日角大口、美鬚眉、長七尺三寸、樂施愛人、勤於稼穡。嘗之長安、受尚書大義略舉。兄縯、字伯昇、慷慨有大節。王莽篡漢、劉氏抑廢、常有興復之志、不事産業、傾身以結豪傑、豪傑以此歸之。

意訳:
世祖の諱は秀、字は文叔といった。南頓君(劉欽)が済陽令となり、世祖(光武帝)が生まれたとき、夜に赤い光が部屋中を照らした。
占い師が占っていうには、「高貴なことはいいつくせない。」と。
この年良く実った稲が育ち、県は豊作だったため劉秀と名付けられた。
高い鼻、額の隆起、大きな口、美しいひげと眉をもち、身長は七尺三寸だった。
人に愛を施すことを楽しみ、農業に勤めた。かつて長安に行って尚書を学び、だいたいの意味に通じた。
兄の劉縯は字を伯昇といい、意気盛んで節義があった。王莽が漢を簒奪して劉氏を抑圧すると、常に漢再興の志を抱き、農業に従事せず、熱心に豪傑と交友し、豪傑たちは彼に帰心した。

三書に共通することは、


光武の容姿
父を九歳で失ったこと
兄がいたこと
長安尚書を学んだこと


の四つ。
また、
『東観漢記』は他の二書に比べ光武の性格が詳述されている。
さらに、尚書を誰に学んだかや、長安での友人韓子との生活も書かれ、エピソードが豊富である。
後漢紀』は『東観漢記』の内容の省略という感じ。ただ、兄の諱が書かれているところが他の二書と違う。
後漢書』は父の死後頼った叔父の名前が唯一書かれている。


全然進まないw
ようやく『後漢書』の一段落分が終わったw
後漢成立の復習もかねてゆっくりやっていきます。

*1:推恩の令

*2:この頃の教育システムには詳しくないのですが、『礼記』や『白虎通』に“小学”の記述があり、初等教育のようです。