雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

I try contrasting "hou han shu" with "dong guan han ji". PART01

なぜか英語のタイトルです。タイトルだけで一時間かかってます。
しかも間違えていたとか救いがないw(東:tong→dong goushuoujiさんご指摘ありがとうございました。)
さて、タイトル通り、『後漢書』と『東観漢記』を比べてみようという企画です。
まず使用するテキスト。
後漢書』は最もベーシックな中華書局のものを使用。
『東観漢記』は現存していないので輯本を使用。*1
こちらも中華書局のものです。
まあ輯本なので、基の『東観漢記』完全にと同じ文でない可能性が高いけど気にしない。


本題に入る前に、少し『東観漢記』の説明をしてみます。
『東観漢記』は光武帝から霊帝までの歴史書です。
東観宮で編纂されたのでこの名前がついております。
後漢の明帝の頃、班固らに光武帝の本紀、さらにその功臣達や敵の伝を書かせたのがその始まりです。
その後も霊帝献帝頃まで様々な人物によって編纂が続けられます。
その人物の中には、蔡邕や盧植といった三国志的に有名な人物もおりました。(馬日磾もね☆
このように、『東観漢記』は同時代に書かれた貴重な史料なのです。


当然『後漢書』の中身もこの『東観漢記』によるところが多いようです。
後漢書』は『東観漢記』から何をとって、何を切ったか。
そんなことが比較によってわかれば面白いと思います。
シリーズ化する予定だけれど、あまり期待しないでね。
(既にこういう研究は無数に有るだろうけど、気にしないことにする。)


ようやく本題。
光武帝紀からいきます。今日は『東観漢記』の説明が長くなったので、『後漢書』の最初の一段落くらいだけやってみます。
……とおもったら『東観漢記』永すぎワロスwww
手入力クソ面倒っていうwww
というわけで一段落もやりませんw

〜見方〜
赤字は『後漢書』のみの文字
青字は『東観漢記』のみ

後漢書』巻一光武帝
世祖光武皇帝諱秀、字文叔、南陽蔡陽人、高祖九世孫也、出自景帝生長沙定王發。發生舂陵節侯買、買生鬱林太守外、外生鉅鹿都尉回、回生南頓令欽、欽生光武。

意訳:
光武帝の諱は秀で字は文叔、南陽蔡陽生まれ。高祖から数えて九代目の子孫であり、景帝の子、長沙定王の劉発より出る。
劉発→劉買(舂陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)という系譜である。

『東観漢記』巻一世祖光武皇帝
世祖光武皇帝、高祖九世孫、承文・景之統、出自長沙定王發、定王生舂陵節侯。舂陵本在零陵郡、節侯孫考侯以土地下濕、元帝時、求封南陽蔡陽白水郷、因故國名曰舂陵。皇考初為濟陽令、濟陽有武帝行過宮、常封閉。上將生、皇考以令舎下濕、開宮後殿居之。建平元年十二月甲子夜上生時、有赤光、室中盡明。皇考異之、使卜者王長卜之。長曰「此善事不可言。」是歳嘉禾生、一莖九穗、大於凡禾、縣界大豊熟、因名上曰秀。

意訳:
光武帝は高祖から数えて九代目の子孫であり、文帝・景帝の血筋である。長沙定王の劉発より出、定王は舂陵節侯を生む。舂陵はもともと零陵郡に在ったが、節侯の孫の考侯の時、土地がじめじめしているのを嫌い、元帝に求めたため南陽蔡陽白水郷に封じなおされた。そのためそこを改名して舂陵とした。
光武帝の父は済陽令となった。済陽には武帝時代の行過宮という宮殿があったが常に閉じられていた。
光武帝が生まれる頃、県令の邸がじめじめしていたため、父はその宮殿を開いて、そこに暮らした。
建平元年十二月甲子の日の夜、光武帝が生まれる時、赤い光が部屋中をことごとく照らした。
父はこの出来事を不思議に思い、王長という占い師に占わせた。
王長は「この吉兆は言うことができないほどだ」と言った。この年、穂のたくさんついた稲が生まれた。一つの稲に九穂、全ての稲のものが大きく、県は豊かに実った。そこで光武帝は秀と名付けられた。(禾=稲、乃=穂がたれる様子)

後漢書は諱と字を載せる。東観漢記は同時代のものであるから当然載せられない。
後漢書は系譜をかなり詳しく書いている一方、東観漢記は舂陵の由来について詳しい。
東観漢記は光武帝の生まれたときの不思議な現象とその名の由来が長々と書かれる。
後漢書はそれらをバッサリ。


予想以上に時間がかかったのでここまで。
やり方を改良しながら、今後も続けたいと思います。
ご意見、ご感想をお待ちしております。
漢文の訳が間違ってるかもしれません。特に「此善事不可言。」の訳。
いろいろテキトーです。すいません。

*1:輯本:様々な書物に引用されたものを集めたもの