王允と尚書事
王允に関して少しばかりの考察
『続漢書』百官志注に引く『献帝起居注』
帝初即位,初置侍中、給事黃門侍郎,員各六人,出入禁中,近侍帷幄,省尚書事.改給事黃門侍郎為侍中侍郎,去給事黃門之號,旋復復故.舊侍中、黃門侍郎以在中宮者,不與近密交政.誅黃門後,侍中、侍郎出入禁闈,機事頗露,由是王允乃奏比尚書,不得出入,不通賓客,自此始也.
献帝が即位した当初、侍中、黄門侍郎といった、皇帝近侍の官を六人ずつ置いた。その目的は「以補宦官所領諸署,侍於殿上.」*1であったという。
袁紹等の宦官虐殺による人員不足を補うためであった。
彼らは禁中に出入りし、帷幄に近侍した。
更に注目すべきは「省尚書事」である。
省尚書事とは、省は覧に通じ、尚書事を覧ずるということである。
その尚書事とは何かを知るためにまずは尚書について少し説明を加える。
尚書は秦の官である。秦の時代は「天下之事皆决丞相府、置尚書於禁中、有令丞、掌通章奏而已。」*2であり、皇帝と丞相の間に奏文を通すだけであった。漢初もこれに因ったようである。しかし、漢の武帝のころから丞相権力削減、皇帝権力強化のため、尚書が次第に重要となり、さらに後漢になると、王莽の簒奪を鑑みて、大臣の権力を削り、皇帝が権力を独占するために、尚書が国家の中枢となった。
ちなみに、尚書は、「故事諸上書者皆為二封,署其一曰副,領尚書者先發副封,所言不善,屏去不奏.」*3「輭者章奏頗多浮詞,自今若有過稱虛譽,尚書皆宜抑而不省」*4など、奏文を見て、奏上を決定する権限があった。*5
尚書の権力増大は内廷*6の権力増大でもあり、一方の外廷*7は権力から遠ざかることとなる。
しかし、内朝の権力増大に努めた後漢であったが、若くして即位した三代章帝の頃に録尚書事*8というものがあらわれる。録尚書事は大臣ら外廷官に加えられるもので、尚書の権限を大臣が持つ事になり、内廷の権力は外廷に移ったといえる。その後も、皇帝が即位する度に録尚書事が必ず置かれた。
省尚書事はこの録尚書事とほぼ同じものと考えて良いだろう。*9ただし、録尚書事が外廷官に与えられていたのに対して、省尚書事は内廷官に与えられたものとの印象を受ける。
霊帝期には初期に胡広が録尚書事となってはいるが、その後録尚書事が置かれておらず、おそらく、中常侍ら宦官が尚書事を行っていたと考えられる。
そのため宦官が殺害されたのちに、宦官の代わりとなった侍中、黄門侍郎が省尚書事となっているのであろう。
霊帝期には内廷の権力が非常に大きかったといえる。これは先帝桓帝が、権勢を誇った外戚梁冀を宦官の力によって倒したことが大いに関係しているのであろう。
その後、少帝即位後すぐに袁隗、何進が録尚書事となるが、何進死後には誰も録尚書事となっていない。
そして献帝期の初期には霊帝期を引き継ぐ形で内廷の権力強化が図られた。その一環として侍中、黄門侍郎に省尚書事が与えられた。*10
これには蔡邕が関わっているのではないかと思う。*11
しかし王允は「機事頗露」のために侍中、黄門侍郎の禁中への出入りを禁じたという。この時に省尚書事も廃止されたのではなかろうか。
この時期は分からないが、蔡邕を殺害し、王允自身が録尚書事となっていることから、董卓殺害後ではないかと思われる。
王允が殺害された後、録尚書事が必ず置かれることとなったようである。
王允によって皇帝権力が削減され*12、次第に権力は外廷に移り、皇帝が傀儡と化して後漢滅亡につながった。*13
こんな風に考えると王允は漢の忠臣ではなく、漢の滅亡の礎を築いた悪臣にも見えてくる。
(おまけ)少帝以降の録尚書事(表)
官職 | 名前 | 就年 | 免年 |
---|---|---|---|
太傅 | 袁隗 | 光熹元年四月 | ? |
大将軍 | 何進 | 光熹元年四月 | 同年八月死 |
司徒 | 王允 | 初平三年四月 | 同年七月死 |
太傅 | 馬日磾 | 初平三年七月 | ? |
司徒 | 淳于嘉 | 初平三年九月 | 興平元年九月免 |
司空 | 楊彪 | 初平三年九月 | 興平元年十月免 |
太尉 | 周忠 | 初平三年十二月 | 初平四年六月免 |
太尉 | 朱儁 | 初平四年六月 | 興平元年秋七月免 |
太尉 | 楊彪 | 興平元年七月 | 建安元年九月免 |
司徒 | 趙温 | 興平元年十月 | 建安十三年正月免 |
鎮東将軍、領司隷校尉 | 曹操 | 建安元年八月 | - |