雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

張済の妹とか孫賁の孫娘とか

陶弘景*1の『真誥』からの話。

まず張済の妹とか

張姜子,西州人,張濟妹也。
〔注〕濟,後漢西涼州人,為董卓將,後攻穰城被射死,即張繡從叔也。其妹不顯外書,不知出適末(未)。
李惠姑,齊人,夏侯玄婦也。
〔注〕玄,魏末人,與李豐俱為晋文王所誅。不知婦亡在玄之前後?李豐乃是馮翊人,非齊人,不知此是李誰之女?
施淑女,山陽人,施績女也。
〔注〕施績,吳興人,孫皓時為驃騎將軍,守西陵。今云山陽,恐女或出適,取夫家郡。不爾,則乖。
鄭天生,[登β]芝母也。
〔注〕[登β]芝,字伯苗,南陽新野人,在蜀為劉禪車騎將軍,後行見蝯抱子,行引弓射殺,因感念而亡。母不知鄭誰之女?

此數女子,昔世有仁行令問,並得在洞中。洞中有易遷館、含真臺,皆宮名也。計今在易遷館東廂中。此館中都有八十三人。又有協辰夫人者,九宮之女也。太上生遣來教此等法,皆以保命授書,協辰夫人主教領之也。夫人,漢司空黃瓊女黃景華也,韓終授其岷山丹,服得仙。
〔注〕黃瓊,江夏人,字世英,漢順帝時司空司徒太尉,年七十九亡。父名香,章和帝時為尚書令,救活千餘人。瓊子琬,司徒太尉,為李權所殺。夫人亦不知出適未?今此諸人或稱女,或稱婦,或稱母,蓋各取名達者而言之,非必因附其功福所及也。


道教詳しくないんでよくわかんないけど、三国関係の女性がいろいろいることだけはわかります。
でもほとんど事績は書いて無い。
ちなみに施績は朱然の子、朱績。


次に、孫賁の孫娘はいろいろ書いてあって面白い。
杜契という人の弟子なのでついでに杜契も紹介。

杜契者,字廣平,京兆杜陵人。建安之初,來渡江東,依孫策入會稽,嘗從之,後為孫權作立信校尉。黄武二年,漸學道,遇介琰先生,授之以玄白術,隱居大茅山之東面也。(後略)

訳)杜契(←原文では左上の横棒が四本、薛と同音らしい)、字は広平、京兆杜陵の人、建安の初めに江東に渡り、会稽へ入り、孫策に従った。後に孫権は立信校尉とした。黄武二年、しだいに道を学び、介琰先生に玄白の術*2を授けられ、大茅山の東面に隠居した。

契弟子二人,一人孫賁孫女寒華也,少時密與契通情。後學道受介琰法,又以法受寒華。寒華初去時,先叛入建安,依邵武長張毅,毅即契通親,故得免脫,事平乃歸茅山耳!寒華行玄白法而有少容,今嘗俱處也。玄白道忌房室,自契受道,不得行此。
〔注〕吳豫章太守孫賁之子(孫)也,山陰王孫奚之子寒華也。尋此二人,乃因奔淫,無應入道,而用志能自抑斷如此,此宜其階也。賁是權同堂兄,有子四人,各名鄰安熙疏而無奚,或是小名,又無奚或為王者也。
訳)杜契の弟子は二人いて、一人は孫賁の孫娘の孫寒華である。若いときに密かに杜契と情を通じた。後に杜契が介琰から玄白の法を授かると、それを孫寒華にも教えた。孫寒華が初め去ったとき、*3まず建安に入って邵武長の張毅を頼った。張毅は杜契と親戚だったため、逃げる事が出来た。事態が収まるとやっと茅山へ帰った。孫寒華は玄白の法のために少女の容姿であり、今はいつも一緒にいる。玄白の法は房室*4を忌むため、契から玄白の法を授けられてからはやれない。
〔注〕呉の豫章太守孫賁の子(孫)である。山陰王の孫奚の子の寒華である。この二人は淫らだったから道に入れないのだが、しかし志をもってここまで自制できたのだから、道に入るにふさわしい。孫賁孫権と祖父を同じくする兄であり、四人の子がいたが、名前はそれぞれ、鄰、安、熙、疏、で奚はいない。*5これは幼名かもしれない。また、奚という名の王もいない。*6


結論
杜契「寒華タンハアハア」
杜契ロリ
玄白の法こわい


ちなみに、もう一人の弟子は陳世京といって孫休のときに侍郎になった人らしいよ。訳さないです。
ごめんね、陳世京くん。
もう一つちなみに、京都大学人文科学研究所による『真誥』の訳注がciniiで無料でダウンロードできます。
読んでみたい方は探してみてね。


中国系統の研究はやっぱり京大だなぁ。

*1:AAになってたり、顔芸として親しまれている呉の将軍陶濬の七代孫に当たる。

*2:人を長生不死にするが房室すると即死

*3:京都大学人文科学研究所の訳では駆け落ちになっている

*4:アレ

*5:三国志』では疏じゃなくて績

*6:そもそも孫賁の子は王になるはずがない。孫策の子ですら王になっておらず、王になってるのは孫権の子だけだった気がする。