宋・衛と鄭が講和、中原情勢安定化へ
B.C.715年(隠公8)7月庚午
宋の殤公と衛の宣公は庚午の日、斉の僖公の仲介により鄭の荘公と温の瓦屋で会談し和平条約を結んだ。これにより、緊張が続いていた中原情勢が鎮静に向かう見通し。
両国と鄭との対立は、B.C.722年(隠公元)5月に発生した鄭の内乱にはじまった。この時、衛が反乱側に協力したため、翌年鄭は衛を攻撃した。衛は、鄭に亡命した前宋公の公子馮をめぐって鄭と関係が悪化していた宋と接近すると、B.C.719(隠公4)、同盟国である陳・蔡も加え、四ヵ国の連合軍で五日間にわたり鄭の東門を包囲した。その後も宋が鄭中部の長葛を占領するなど衝突を繰り返していた。
昨年7月、宋は宿で鄭と会談し講和するなど単独で和平へのプロセスを進めており、斉はこのタイミングを見計らって今年春、宋と衛の非公式会談を用意、和平へ向け両国の意志の統一を図っていた。
この講和を受け魯の衆仲スポークスマンは「(斉が三国を講和に導いたのは)ありがたいこと」と述べ斉の僖公の明徳を称えた。
中原情勢の推移
年月 | 出来事 |
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B.C.722年5月 | 鄭で共叔段が反乱。 |
B.C.722年 | 共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。 |
B.C.721年 | 鄭が再び衛を攻撃。 |
B.C.720年8月 | 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。 |
B.C.719年夏 | 衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。 |
B.C.719年秋 | 四ヵ国が再び鄭を攻撃。 |
B.C.718年4月 | 鄭が衛に報復攻撃。 |
B.C.718年4月 | 衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。 |
B.C.718年9月 | 邾が鄭と連合し宋を攻撃。 |
B.C.718年 | 宋が報復し鄭の長葛を包囲。 |
B.C.717年秋 | 宋が長葛を占領 |
B.C.716年7月 | 宋と鄭が宿で講和 |
B.C.715年春 | 斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。 |
B.C.715年7月 | 宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。 |