雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

蜀郡の常氏と趙氏

『華陽国志』蜀郡士女讃から

常洽、字茂尼、江原人也。自荊州刺史遷京兆尹、侍中、長水校尉。以兵衛大駕西幸。
傕等作難、常侍衛天子左右。為傕所殺。

常洽、荊州刺史や京兆尹、侍中、長水校尉を歴任。献帝の流浪に付き従った。
常に献帝の左右を護衛したが、李傕に殺された。


彼には娘がいた。同じく蜀郡士女讃から

紀常、常侍【常】洽女趙侯【謙】夫人也。父遇害在長安、其二兄皆先没。
遣父門生翟登、張順迎喪。時寇賊蜂起、昼夜悲哀。
順、登得将喪無恙還、時人皆以紀常精誠所感。

娘は紀常*1といい、趙謙の夫人であった。
常洽が長安で亡くなった時、二人の兄は既に亡くなっていた。
(蜀にいた)彼女は父の門生であった翟登と張順に父の棺を迎えに行かせた。*2
ちょうど賊が横行していたので、昼夜悲哀にくれた。
張順と翟登、そして棺が無事に帰ってきた時、人々は、紀常の誠意が通じたのだとした。


紀常の夫趙謙、蜀郡の趙氏というと後漢の名族である。
一族の中から三公を何人も出しており、趙謙自身、太尉と司徒になっている。
袁氏や楊氏レベルのもっと高名な家柄と婚姻関係を結んでるのかと勝手に思っていた。
けれど実際にはあまり有名とはいえないし三公も出してない常氏、常洽自身は中央でそれなりに活躍しているとはいえ、つりあう家柄には思えない。
やはり同じ蜀郡であることから考えると、地元豪族との結びつきは重要であったのかもしれない。


最後のまとめ文がうまくまとまらなかったのは徹夜で華陽国志を読んでいたからです←いいわけ

*1:女性は結婚すると姓が変わるので、あらかじめ名前にもとの姓をいれておくことがしばしばあった。

*2:注によると紀常は60〜70の高齢であったため自身では行けなかったようだ。