太平記と蜀漢正統論
昔書いたレポート、最初で最後(今のところ)のA+評価だったものが発見されたので要約して再利用。
『太平記』は南北朝時代の内乱を描いた軍記物語であり、正統とされているのは後醍醐天皇らの南朝である。
「蜀漢正統論」は東晋の習鑿歯、南宋の朱熹らが唱えたもので、その名の通り、三国時代の正統を魏ではなく蜀漢に求めるものである。
『太平記』には『三国志』関連の話が散見される。
そこでは南朝=蜀漢、北朝=魏として描かれている場合が多い。
一部、南朝=呉となる部分はあるが、少なくとも南朝=魏や北朝=蜀漢となる部分はない。
続きを読む以降に引用してます。長いので暇だったら御覧下さい。
「蜀漢正統論」が唱えられた東晋や南宋の時代はどちらも中国の中心である中原が占領され、遷都した時代である。
南北朝時代はまさに足利氏に平安京を占領され、吉野に遷都した時代である。
『太平記』の著者は、自分たち南朝と東晋、南宋を重ね合わせており、かなり意図的に「南朝=蜀漢、北朝=魏」の構図を使ったのではないだろうか。
続きは読まなくていいです。根拠の引用です。
まず、興福寺一乗院より攻められ十津川へ逃れようとする護良親王のセリフには『死せる孔明は生ける仲達を走らしむ』が使われている。
『太平記』巻第五「大塔宮南都御隠居後十津川御栖ひの事」
我すでに自害せば、面の皮を剥ぎ、耳鼻を切つて、誰が頸もし獄門に懸けられば、天下に御方を存ずる物、皆力を失ひ、武家は恐るるにところなかるべし。『死せる孔明は生ける仲達を走らしむ』という事ありき。
護良親王(南朝)=諸葛亮
護良親王に敵対する興福寺一乗院=司馬懿
次に、南朝の新田義貞の計略により、同士討ちの大混乱に陥った足利方のなかで、足利尊氏が三度も自殺を考えたが何とか追っ手から逃れた時のこと。
『太平記』巻第十五「二十七日京合戦の事」
梅酸の渇をぞ止められける。
『世説新語』から、魏の曹操が行軍中に、前方に梅林があると兵士を騙し、兵士たちののどの渇きを耐えさせた故事。
足利尊氏(北朝)=曹操
さらに、湊川の戦いでの足利軍の船の数を
と表現している。ここでは、大軍である足利軍を赤壁の戦いで大軍であった曹操軍に例えているのだ。
足利軍(北朝)=曹操軍
最後に、新田義貞が大蛇となり地上に臥していると、敵は撤退したという夢を見たと聞いた人が、それを不吉だと言い、その理由をこう述べている。
『太平記』巻第二十「孔明臥竜の事」
昔、異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操といひし人、(中略)竜の形にて水辺に臥したりと見玉へるも、孔明を臥竜といひしに異ならず。
つまり、新田義貞の見た夢の大蛇になり臥していたと言うのは、孔明が若い頃、臥竜と称していた事に通じ、それは新田義貞が孔明と同じように陣没するということを暗示していると言うのである。新田義貞は同巻で自害し、それを聞いた後醍醐天皇は、「蜀の後主の孔明を失」ったように落ち着かなかったとされている。ここでは、新田義貞=孔明、という図式が成立している。