単純化の難
久しぶりの更新。はるばる京都まで行っていました。
本題。
歴史を考察する際に、私は物事を単純化しすぎてしまう。
歴史の中で動くのは人間である。
果たして、人間はそんなに単純化できるのか。
例えば、党錮の禁は士大夫の清流派と宦官の濁流の対立といったように単純化される。
しかし、士大夫の中には濁流に近づいていたものもいたであろうし、宦官の中には呂強のように、むしろ清流派に近いと思われる人物もいるわけである。
人間の身の処し方は、身分、門地、思想、感情など様々な要因が複雑に絡み合って決定されるはずだ。
宦官だから、とか、士大夫だから、というように、帰属する集団がどこか、で決定されるわけではない。
そのことを忘れ、あまりに単純化しすぎては、人間の織りなす“生きた歴史”というものが見えなくなるような気がする。