雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

尚書と上奏と権力と

やっと生活が落ち着いたので今日から更新再開。
来週って言ってたけど結局再来週になってしまったっ。
東北は楽しかったです。
松島にあった某歴史館がBASARA化してたのが印象に残りました。
まさかプロデューサーのサインが展示されているとは・・・。


本題。論文を読んだ。
渡邉将智氏『政策形成と文書伝達 -後漢尚書台の機能をめぐって-』(史観159冊)を。


非常に興味深い論文だったので整理しつつ紹介。
論文の要約ははじめてなので、上手くできないと思います。
でもこれからこのブログでときどき論文紹介を行いたいです。
そうして少しずつ上手くなっていきたいと思います。


渡邉氏はこの論文のなかで、もはや定説と化している言っても過言ではない
後漢代に尚書が大きな権力を持っていた」
という説に疑問を投げかけている。


最初から結論を言えば


尚書台は文書伝達を担っていたに過ぎず、実際の政策形成は九卿、公府や将軍府が行っていた。


というのである。


言われてみると、後漢で権力を握ったのは、外戚あるいは宦官であり、前者は将軍府を、後者は皇帝近侍であることを背景としている。
尚書台を背景に権力を握った人を思いつかない。


以下詳細。陳羣。長文。
後漢代、政策案の最も一般的な書式は「上奏文」であった。
この論文は上奏の流れと共に政策の形成過程が紹介し、それによって尚書の役割を明らかにする。


尚書は民曹尚書など「○曹尚書」というかたちで分野によって6つに分かれており、官吏から出された*1上奏文はそれぞれ関連する尚書に提出された。
通説では、尚書は提出された上奏文の内容を検査し、決裁にかけるに値しない場合は皇帝に伝達せず差し戻したとするが、
そうではなく、忌避事項、具体的に言えば誇張や虚飾、がないかを点検していたのであって、内容そのものを検査していたのではないという。
政策内容の審査は三公府及び所轄官署に上奏文の副本が提出され、ここで行われていた。*2


尚書に提出された上奏文は正本として、上奏の形式になっているので、問題が無ければ尚書(伝達の役目は尚書令説と尚書郎説がある。)から皇帝に伝達された。
ただし尚書から直接皇帝に伝達したわけではなく、禁中への伝達は尚書から「中外に関通する」官である黄門侍郎(士人、通常時)、小黄門(宦官、皇帝後宮滞在時)を通して行われた。


上奏文の皇帝伝達までをまとめると次のようになる。

・上奏文は尚書で忌避事項の点検が行われた後、尚書から黄門官を通して皇帝へ伝達された。
・皇帝の伝達までには尚書による形式等の審査と、諸官署による内容の審査があった。
・内容に関しての検査を行っていたのは副本を提出された三公府等であり、尚書は内容には関知しなかった。


皇帝に伝達された上奏文は、審議が無くそのまま裁可されることもあったし、三公九卿等に審議させたり、上奏者や、その関係者に意見聴取して(問状)参考にする場合もあった。
また「顧問応対」という権限のある官が決裁に関与する場合もあるとする。
正直に言うと、私はこの言葉に具体的なイメージがわかなかった。
しかし、この論文によってかなり具体的な役割が見えてきた。
「顧問応対」は侍中、中常侍など皇帝近侍の官にあったもので、皇帝の諮問に応じたり、皇帝・皇太后に直接進言することのできる権限であるという。
上奏された案件は、皇帝から「顧問応対」の官に諮問され、その意見を参考にして決裁される場合もあった。
余談だが、この権限は後漢末の中常侍の権力の基盤となったと考えられる。


政策の決裁に関しては次のようにまとめられる。

・政策は三公九卿の審議の結果、あるいは、上奏者や関係者、はたまた「顧問応対」官の意見をもとに、皇帝によって決裁された。
尚書は政策の決定に関与していない。


政策が決裁されると、今度は逆に禁中から黄門官を通して当該の尚書に伝達される。
下達された政策案から尚書台で尚書郎によって詔が起草される。
詔には「故事」が引用されることがあった。
「故事」は皇帝や官吏の規範たるべし過去の詔や慣例などであり、尚書に保管されていた。
この「故事」は儒教経典と共に政策の根拠付けの役割を持ち、詔に用いられるだけでなく、上奏文にも使われた。
詔は尚書僕射が「検署」とよばれる宛名書きをした後、尚書令、不在時は尚書僕射によって九卿等の当該官署に下された。


つまり下達は次のように行われる。

・上奏の場合と逆に皇帝→黄門→尚書
尚書で「故事」を用いながら詔が起草された。
・詔は尚書から当該官書に下された。


ここまで見ていくと分かるように、上奏から詔の下達まで、尚書は政策内容には決して関与していないのである。
あくまでも、政策の伝達の中心として機能しているだけ。
尚書が権力を握るのは後漢からという従来からの説のほかに、このような意見もあるのだ。
まだまだ研究は続くだろう。
これからこの説を補強する研究も出てくるだろうし、従来の説をさらに補強する研究だって出てくるかもしれない。
どっちの説に落ち着くのか今から楽しみで仕方ない。(傍観者気取り。)


私はこの論文を読むことで、イメージの沸かなかった後漢代の政策決定の様子に、かなり具体的な動きを想像出来るようになった。
実はこの論文で最も参考になったのは、黄門官の役割と「顧問応対」の役割に関してのものであった。というのも付け加えておく。

*1:公府や将軍府による政策案は上奏を行わず、直接皇帝に提言された。

*2:副本の提出は全ての上奏において行われたのではなく、地方長官あるいはその任官経験者の上奏の場合であったとされる。