雲子春秋

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唐珍について

昨日の続きの唐氏シリーズ。
今日は唐珍。
唐珍は宦官唐衡や、少帝の妻の唐姫*1、荀彧の妻?の一族で売官により司空までなった人だ。
この唐珍について『広東通志』、『百越先賢志』で今まで知らなかった記述を見つけた。

『広東通志』巻四十四 人物志
唐珍字恵伯、桂陽人。幼時聞人講書即能記誦、人謂神童。及長状貌瓌特、善事父母。天性恬漠、荊州刺史度尚甚稱重之、及就辟召、累官太常。
熹平二年秋、代楊賜為司空。嘗奏請沿海立堠戍以防蠻宼。
其先世家本潁川、同族有中常侍衡、與左悺等竊弄威福。衡常呼珍為弟、珍恥之。遂陽瘖不復出言。以病罷歸、居公位僅朞月。光和二年卒、郷人立廟祀之祈禳有應號唐司空廟。
『百越先賢志』巻三
唐珍字恵伯、桂陽人。幼聞讀書即能記誦、天性恬漠、寡欲。荊州刺史度尚、甚稱重之、及就辟召、累官太常。
熹平二年、代楊賜為司空。嘗奏請沿海立堠戍、以防夷冦、天子不從。
自言先世家本頴川大父南徙已居三世。同族有中常侍衡、與左琯等竊弄威福、衡常呼珍為弟、珍耻之。然衡有弟、方為京兆虎牙都尉、珍謂所親曰「彼已有虎牙弟、又奚用弟我為耶。」。
自是陽瘖、不復出言。遂以久病罷歸。素師事郴人成武丁、得黄老養性之術。閉戸呼吸玄牝、人罕接焉。光和二年卒、郷人屢見其出入山水間、立廟祀之、號唐司空廟
(據『太平御覧』『人代紀要』『穎川志』『湟州志』叅修)

2つの記述は多少異同があるが、おそらく引用元は同じだと思われる。
まとめると次のようなことを言っている。

唐珍、字は恵伯、桂陽の人である。幼い頃から書物の講義を受けるとすぐに記憶して暗誦したので、神童と呼ばれた。成長すると容貌はすぐれ、よく父母に仕えた。
生まれつき落ち着きがあり、欲が少なく、荊州刺史の度尚*2は唐珍をたいへん称賛し重んじた。辟召されて職に就くと、官位を重ねて太常になった。
熹平二年(173年)秋、楊賜に代わって司空となった。常に海沿いに物見やぐらと、とりでを立て賊を防ぐよう奏上したが、皇帝は従わなかった。
自ら祖先の家はもともと潁川であり祖父が南の桂陽に移ってすでに3代と言っていた。
同族に中常侍の唐衡がおり、左琯らとともに権力をほしいままにしていたが、唐衡は常に唐珍を弟と呼び、唐珍はこれを恥じた。
唐衡の弟の方は京兆虎牙都尉であったが、唐珍は親しい者に言って曰く「彼にはすでに京兆虎牙都尉の弟がいる。またどうして弟を私とする必要があるのか*3。」
自ら声が出ない病気を装い、二度とは発言することがなかった。そして、長い病により罷免され、帰郷した。三公の位にあることわずか一か月であった。
日ごろから郴の人、成武丁に師事しており、黄老の養生術を会得した。戸を閉じ鼻と口で呼吸し人と交友することは稀だった。*4
光和二年(179年)に死去したが、郷里の人がしばしば、唐珍が山や川の間を往来しているのを目撃したため、廟を立ててこれを祀り、唐司空廟と号した。

この記述を信じるとすると、後漢書では潁川の唐珍とされているが、実際には桂陽の人であった。
おそらく桂陽に居住していても本籍は潁川のままであったために、潁川の唐珍と書かれているのだろう。
さらに、宦官唐衡の弟とされていたが、実際には同族であったから弟と呼ばれただけだったという。


ただ、この話を読むと、熹平二年(173年)に司空になった唐珍が、宦官の唐衡から弟と呼ばれたことで病気を装って罷免された、という流れに思えるが、唐衡は延熹七年(164年)に死んでいる。
うまく意味が取れていないせいかもしれないが、時系列がめちゃくちゃになっている気がする。


また、『太平御覧』に引く『汝南先賢伝』によると汝南太守唐珍という人がおり、免職になって故郷に帰っていた陳蕃を功曹として招聘している。

『太平御覧』巻二百六十四 職官部六十二 所引『汝南先賢伝』
袁閬,字奉高,為功曹,辟太尉掾。太守唐珍曰:「今君當應宰府,宜選功曹以自代。」因薦陳仲舉,珍即請蕃為功曹。

適当訳
袁閬、字は奉高、功曹であったが太尉掾に辟召された。
(汝南)太守の唐珍は言った。「今君は宰相の府に仕えようとしているが、代わりの功曹を自ら選ぶべきだ。」と。
そのため陳仲挙(陳蕃)を薦め、唐珍は陳蕃に功曹になってもらうよう要請した。

唐珍を称賛した荊州刺史度尚は八廚の一人で党人だし、この陳蕃も党人である。
唐珍は宦官の一族にしては党人との関係が深い。



唐珍は官位を買ったと批判されてたり、司隷校尉で宦官と結託していたという話もある。
なんとなくだが桂陽出身で司空になった唐珍と、潁川出身で唐衡の弟の唐珍という二人の別人を混同しているのではないかという気がしてしまう。
ぜひ唐珍についてみんなも考えてみよう!


補足:『百越先賢志』によると、上の記述は『太平御覧』『人代紀要』『穎川志』『湟州志』を参照したとのことであるが、『太平御覧』、『人代紀要』には唐珍についてのここまでの詳しい記述は見られない。
『穎川志』『湟州志』はおそらく『潁川志』、『湟川志』の誤記であると思われる。*5
『潁川志』、『湟川志』はいくつか種類があるようで、いつ成立したものを参照したのかはよくわからない。
潁川志は古いものだと、後周(951-960)の樊文深が書いた『中嶽潁川志』がある。*6
また、『湟川志』は宋代に成立したものがあるとネットに書いてあった。

*1:違うかもしれない

*2:度尚の荊州刺史在任期間は延熹五年(162年)〜延熹七年(164年)

*3:「又奚用弟我為耶」の訳だがあまり自信がない。

*4:閉戸呼吸玄牝人罕接焉。の訳が全然わからない!

*5:『百越先賢志』の他所で『潁川志』、『湟川志』の引用がある

*6:旧唐書』巻四十六 經籍上