蜀漢の春秋
春秋時代の語源となった史書『春秋』、注釈者により複数のバージョンがあり、現在最も通行しているものは左丘明による『春秋左氏伝』である。
『隋書経籍志』には『春秋』の概要が書かれており、後漢代には、主流として『公羊(くよう)伝』の厳氏派と顔氏派、『穀梁伝』の三種が国学で教授されていた。
『左氏伝』は後漢代からそれなりに学ぶものが多かったが、メインストリームとはなっておらず、魏晋以降に主流となっていったという。
三国志的には関羽が好んだり、杜預が注釈をつけたのが『左氏伝』である。
さて、蜀漢ではどの『春秋』がメインだったのだろうか。
簡単に表を作ってみた。
名前 | 左氏 | 公羊 | 穀梁 | 学問的官位 |
---|---|---|---|---|
張裔 | ○ | |||
孟光 | ○ | 議郎 | ||
来敏 | ○ | 典学校尉 | ||
尹默 | ○ | 勧学従事 | ||
李譔 | ○ |
『三国志』の中では蜀漢において、『穀梁伝』を行った人については記録がない。
来敏、尹黙、李譔は荊州で学問しているが、荊州は潁容という左氏の大学者の門下が大量流入していたため、左氏が隆盛しており、*1尹黙、李譔の師の宋忠も左伝の大家であったという。
尹默は劉禅が太子になると、僕射として左氏伝を教授している。
また、李譔は同じく劉禅の僕射となっており、劉禅は『左氏』で育ったようである。
これらのことから、当初こそ張裔や孟光のような公羊伝を収めたものもいたが、劉禅自身も左氏伝で育っており、左氏伝がメインストリームであった可能性が高いと思われる。
*1:詳しくは野沢達昌「後漢末 荊州学派の研究」