牛金の出自と子孫
『元和姓纂』巻五 牛
宋微氏之後、司寇牛父、子孫以王父字為氏。戦国時趙有牛翦、秦有牛缺。
【隴西】漢牛邯為護羌校尉、居隴西。又有牛崇、牛嘉。魏有牛金。
(中略)
【安定】状云牛金之後、逃難改牢氏、又改為遼氏。裔孫後周工部尚書、臨芤公遼允、復姓牛氏。(後略)
『元和姓纂』によると牛金は隗囂から後武帝に降った護羌校尉牛邯の子孫であり、隴西の人であるらしい。*1
また、牛金の子孫は難を避けるために改姓して牢氏と名乗り、後にさらに改めて遼氏とし、後周になって臨芤公*2の遼允がようやくもとの牛氏に戻したとのこと。
『晋書』によると石に刻まれた「馬(司馬氏)の後に牛有り」を信じた司馬懿によって牛金が暗殺されている。
難を避けるとはこれに関連しているのかもしれない。
その後の遼氏云々は異民族が格を付けるために無理やり牛金と関連付け、漢人出自を装おうとしたんじゃないのと疑ってしまう。
それはそうと、牛金が隴西出身だとすると、隴西出身の董卓の娘婿*3となっている牛輔とも関係ありそうだよね。
また、どちらも隴西牛氏だとすれば、羌族との関係は気になるところである。
護羌校尉牛邯の子孫として羌族に影響力があったかもしれない。
牛金は対蜀戦線で使われているのはそういった関係からだろうか。
牛金は牛輔の縁者で、牛輔死後、呂布に属し、曹操に降伏、曹仁の騎将として配属されたみたいな妄想をした。
まあ張繍経由の可能性もあるけど隴西出身なら少なくとも董卓は経由してそう。
『元和姓纂』なのでこれらの話の信憑性自体はそんなに高くはないが、妄想の種にはなるね。