劉封への援軍要請
劉封と孟達が関羽の援軍要請を断った話がある。
wikipediaを見ると
劉封―wikipedia
同年曹操と孫権の挟撃を受け、関羽が孤立した。関羽からは何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。結果、関羽は敗死。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B0%81
関羽―wikipedia
関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、それを恐れて西の麦城に拠った(『三国志』呉志「呉主伝」「呂蒙伝」)。援軍を上庸の劉封・孟達に求めたが拒絶された(『三国志』蜀志「劉封伝」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%BE%BD
このように、関羽・劉封の項どちらも孫権の奇襲で関羽が危機に陥って以降、劉封らに援軍を求めたとしており、世間でもそう認知されているものと思われる。
『三国演義』においてそのように描かれていることが、多分に影響しているに違いない。
だがちょっと待ってほしい。
『三国志』巻四十 劉封伝
自關羽圍樊城、襄陽,連呼封、達,令發兵自助。封、達辭以山郡初附,未可動搖,不承羽命。會羽覆敗,先主恨之。
『三国志』では関羽が樊城・襄陽を包囲すると、しきりに劉封・孟達に援軍を請うた、としている。
関羽が麦城に孤立してから援軍を要請したわけではない。
樊城の戦いの時系列を確認してみると
先主伝によると劉封・孟達が上庸に送られたのが建安二十四年夏(四〜六月)。
関羽は同年秋(七〜九月)に于禁を降し、樊城・襄陽を包囲している。
また、孫権軍が関羽攻撃に参加するのは同年閏十月(通常の十月の後)。
そして関羽が捕らえられるのは同年十二月。
おそらく援軍を要請したのは樊城・襄陽を包囲した秋のことであろうと思われる。
孤立した関羽を救援しないなんて劉封ぐう畜と思っていた人も多かろうが、そうではなかったのだ。
俺たちは『三国演義』の印象操作で不当に劉封を憎むことを強いられているんだ(集中線