徐庶の記録に見る歴史記述
『三国志』巻三十五 諸葛亮伝
俄而表卒,琮聞曹公來征,遣使請降。先主在樊聞之,率其眾南行,亮與 徐庶並從,為曹公所追破,獲庶母。庶辭先主而指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣曹公。
『三国志』本文の記述だと、徐庶は劉備が曹操に敗れた際にその母が捕らえられたため、やむを得ず曹操に降ったとある。
一方、魏の時代に書かれた魏側の記録『魏略』では、
荊州が降伏すると、孔明と劉備は去り、徐福(徐庶)と石韜はともに曹操の元にきた。
とだけあり、まるで徐庶が自らの意志で曹操に降ったかのような印象をうける。
『三国志』本文で受けたやむを得ず感はみじんも感じられない。
魏側としては、無理矢理来させたというのでは都合が悪く、バッサリその辺りの記述は無かったことにしたのかもしれない。
何が言いたいかというと、歴史書ってのは作る人や集団の恣意が結構入るんだよってこと。
嘘はつかないかもしれないけど、こうやってカットが入ることによって、読者の受ける印象は正反対にもなる。
一方の立場の記録しか残ってない場合もあるので、その辺のことを留意して歴史は楽しもう。
史料批判ってのが重要。
ちなみに私は小説的に面白い方をとっちゃうから、そもそも歴史家には向いてない。
史料批判? なにそれおいしいの?
なのでこのブログもあんまり信用しない方が良い、てへぺろ(・ω<)