雲子春秋

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龐季

誰得無名人物特集。今日のテーマは龐季

三国志』巻六 劉表伝 注引『戦略』
遂使越遣人誘宗賊,至者五十五人,皆斬之。襲取其眾,或即授部曲。唯江夏賊張虎、陳生擁衆據襄陽,表乃使越與龐季單騎往說降之,江南遂悉平。

劉表荊州牧として赴任すると豪族達を騙して虐殺した。
残すところは江夏の張虎、陳生が襄陽にたてこもるのみとなり、劉表は蒯越、龐季に説得に行かせた。

ここででてくる龐季であるが『水経注』にも見える。

『水経注疏』巻二十八
此山以建安三年崩、聲聞五六十里、雉皆屋雊。縣人惡之、以問侍中龐季。季云:山崩川竭、國土將亡之占也。

冠蓋里と呼ばれていた地があった。
かつて数十人の刺史や太守、県長などがあつまり、冠や馬車の屋根(=蓋)が満ちたことがあったためである。
その地には大きな山があった。
建安三年、その山が崩れ、その音は五六十里先にまで響いた。県の人々はこれを不吉に思い、侍中の龐季に尋ねた。
彼は「山が崩れ、川が渇くのは、国土が亡ばんとしていることを表すのだ」と答えた。


ここで侍中として登場する。
荊州曹操に降伏した後、すなわち建安十三年以降ならば、侍中でも問題ないかもしれない。
しかし、建安三年はまだ劉表統治下である。
おそらく州の役人である治中の誤りではないだろうか。
治中を侍中とする例は『後漢書』にある。

後漢書』列伝第六十四下 劉表
初,表之結袁紹也,侍中從事鄧義諫不聽。義以疾退,終表世不仕,操以為侍中。其餘多至大官。

奇しくもこちらも劉表軍のことだ。
あるいは、劉表軍に侍中従事という役職があったのかもしれない。なんちゃって。