梁冀の末裔
『水経注疏』巻二 河水二
『十三州志』曰:大河在金城北門、東流、有梁泉注之、泉出縣之南山、按耆舊言:梁暉、字始娥、漢大將軍梁冀後、冀誅、入羌。後其祖父為羌所推為渠帥、而居此城。土荒民亂、暉將移居枹罕、出頓此山、為群羌圍迫、無水。暉以所執榆鞭堅地、以青羊祈山、神泉湧山、榆木成林。其水自縣北流、注于河也。
『十三州志』はいう。大河、金城の北門にあり、東に流れ、梁泉がここに注ぐ。泉は県の南の山から出る。
(梁泉について)長老の話にいう。梁暉は字を始娥といい、漢の大将軍梁冀の後裔である。梁冀が誅殺された後、(生き残りの梁氏は)羌に入った。後、その祖父が羌族に推薦され渠帥(首領)となり、この城に居住した。大地は荒れ、民衆は乱れた。梁暉は枹罕に移り住もうとし、この山に駐屯したが、羌族たちに包囲され、水はなくなった。*1梁暉は楡の鞭を地に突き立て、黒い羊をささげて山に祈ると、泉がわき出た。楡の鞭は林となり、泉の水は県から北に流れて黄河に注ぎ込んだという。
外戚として莫大な権力を手にし、不満を述べた皇帝を殺害するなど跋扈将軍*2として恐れられた後漢の大将軍梁冀。
前門の梁冀、後門の董卓、と並び称される*3暴君だ。
その梁冀の子孫は羌族のもとに逃れていたらしい。
ここに引かれた注によれば、この梁暉、『太平寰宇記』は後周の将軍とし、『名勝志』は北周の将軍としている。要するにいつの時代か不明ということだ。
ただし少なくとも『水経注』が成立した515年以前の話ということになり、『太平寰宇記』の後周説も、『名勝志』の北周説もガセネタであるとわかる。
結局よくわからん。
注はさらにいう。
『後漢書』には「少長関係なくみんな棄死になった」ってあるし、この話は信じるに足りない。
妄説だと断言されてる。
ただ、梁冀の一族は羌の居住地に近い涼州安定の出身だし、族滅された竇武の孫*4が、荊州に逃れた例もあるし、全くありえない話ともいえないのではないかと私雲子は思うのだ。
まあ小説的すぎるきらいはあるけど。