雲子春秋

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律の制定

廣瀬薫雄『秦漢律令研究』(汲古書院、2010/3)を読んでいる。
秦漢律令学会に波紋を広げているこの書、とっても面白い、興味深い。
今回は主に「第四章 秦漢時代の律の基本的特徴について」から律とは何か、その制定手続きはどのようであったか、をとりあげたい。※「」内は引用です

律令とは何か

さて、これから『律令』の話をしよう*1、と思うがその前に、抑えておきたい法律用語。
法典:体系的に編纂された法、日本だと六法。
単行法:特定の事項に関して独立して制定された法。
昔は、律は刑法、令は行政法、という解釈であったが、ここ最近の研究では否定されている。
また、後代の律令制にあわせ、基本法典として律をとらえていたが、廣瀬氏は、律を単行法令の寄せ集めであるとする。
秦漢代の法典の存在を完全に否定したのだ。

律の制定

魏以降の律制定は、皇帝が詔により、臣下にこれまでの法規定を整理し、まとめ、法典化し、完成後公布される。
一度に編纂され、法典であったことをおぼえておこう。
一方、秦漢代の律制定であるが、これまでの研究では、「単行法令である「令」が分類整理され、「律」という法典に編入され」たと考えられていた。
これに対して廣瀬氏は「律は法典だということを暗黙の前提とし、後代の律の制定手続きを元に秦漢時代の律を考えていると言わざるを得ない」として、法典であったとすることを批判する。
そして氏は竹簡・木簡の出土史料から戦国時代の律が、「一条ずつ王命によって下された」ことを明らかにする。
律は一度に編纂されたわけでも、法典でもない、単行法令であったのだ。
それは秦代もかわらない。
焚書を規定した律、挟書律も皇帝の詔による単行法令であることが『史記』秦始皇本紀により確認される。
さらに、前漢後漢通して漢代も同様である。

律と令

令とは詔である。
というのも秦王政が皇帝を称した時に、皇帝の命は制とし、令は詔と呼ぶことにしたのである。
詔(=令)によって規定された律は本質的に令と変わらない。
両者の違いであるが、令は「皇帝の詔そのもの」、律は「皇帝の下す詔(令)の中の規範的効力を有する部分である」とする。
簡単にまとめると。
臣下がこういう法律つくってくださいという法律案を上奏する。
皇帝がその上奏文を引用して詔を下し、発布する。
発布された皇帝の詔自体が令であり、律とはその詔(令)内の臣下の上奏文部分である。
上奏文が皇帝の詔(令)に引用されることで律となり、はじめて強制力を得るのだ。
そのため、律に違反することは皇帝の詔(令)に違反することであり「犯令」や「不従令」という。
律の法律としての根拠は詔(令)にあった。

出土した律の謎

出土した数々の律の中には、同じ律であるにも関わらず形式や文章に違いがあったり複数の名を持っていることがある。
この謎に対して廣瀬氏は「今日知られている律名・令名は、そのほとんどが個人がめいめい規定内容に基づいて付けた略称であ」るとし、また「出土している秦漢時代の律は、中央政府が編纂して公布したものではなく、各官署が執務用に制詔を編集して属吏に配布したものか、あるいは個々人がみずからの仕事の便を図って独自に編集したノートであろう」という。

まとめ

律は法典じゃない。
令と律はほぼ同じ。
皇帝の詔(令)に引用されることで臣下の上奏による法律案が律となり強制力を得る。
出土している律令は、官署や個人が自己の便利のために必要な部分を編集したので同じものでも文章などに違いがある。
魏晋以降、各種制詔が整理され法典的性格をもつ律令が誕生していく。

雲子曰

例のごとくまとめとか結構ひどい。
法律の知識のない私がまとめるのは百年早かったかもしれない。
廣瀬氏のこの論文は結論が箇条書きで非常にわかりやすい。
なお、この論文いろいろ批判・反論などもあるみたいである。
なんせこれまでの秦漢律令研究の基本的定説である法典の存在を真っ向から否定してしまったのだから。
まあ法典がなかったということの証明は、悪魔の証明になっちゃうので今まで指摘する人はあまりいなかった。
でも実は研究者達の中にはうすうす感づいていた人もいて、それなりに支持されているっぽいです。[要出典]


秦漢律令研究は京大がけっこうさかんである*2。一方この廣瀬氏は東大出身である。
時代区分論争につづいて東大VS京大の秦漢律令論争が見られるのかと思うと胸が熱くなる。

*1:今となっては古いネタ

*2:例えば二年律令の訳注を作成、ネットでも見られる