後漢末における州刺史と州牧(概略)
朱涵・柏天航「汉末刺史州牧嬗代再探讨」(『大众商务』2010年10期 2010/05)
石井仁「漢末州牧考」(『秋大史学』38、1992/03)
を読んで、twitterでも書いたけど刺史と牧の違いがなんとなくわかった。
論文風にまじめに書いたら長くなりすぎて見にくくなったので、本記事は結論だけ。
論文風のはまた今度掲載する予定。
刺史と牧の違いというと、行政権の拡大が一般的だ。
でも軍事権に関する違いのほうが大きいと思う。
1.行政
後漢に入ってから刺史の行政権は少しずつ拡大しており、霊帝期には太守や県令の人事を行う場合があった。
更に、郤倹の事例を見るに、霊帝期には徴税も行っていたようであり、刺史の時点ですでに財政権があったように思われる。そのため、私は行政権に関して後漢末の刺史と牧に大きな違いを見いだせない。
2.軍事
刺史の本来の職務は郡国の監察であり軍事職ではなかったが、安帝期を境に刺史が反乱鎮圧する例が現れ始める。
その場合、御史(御史中丞あるいは侍御史)が中央から派遣され監督した。
そして、州牧は“州刺史+「監軍使者」”*1であり、軍事に際して御史による中央からの監督をうけず、独立した権限があった。
雲子曰
2にあげた軍事権の拡大こそ、州刺史と州牧の最大の違いでは無かろうか。
刺史の持っていた行政権に独立した軍事権が加わることで、漢末の群雄割拠につながるのだ。
[中国史]藩鎮・都督・刺史・太守
一般論として、地方における軍事権と徴税権が分離されているうちは割拠の情勢は生まれない。地方の軍事権と徴税権が一体として掌握されることによって、はじめて割拠の情勢が生まれる。
(『枕流亭ブログ』http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20110302)
まさに上のとおりだと思う。
*1:石井先生によると、「監軍使者は正式の官職名ではなく「持節して○○の軍事を監督する勅使」の総称であった」という。刺史を督した御史もこれにあたるといえる