雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

後漢と羌族、その3

http://d.hatena.ne.jp/chincho/20110619/1308463250の続き。

破羌以西破棄の議

引き続き馬援伝

後漢書』列伝十四 馬援伝
是時,朝臣以金城破羌之西,塗遠多寇,議欲棄之。援上言,破羌以西城多完牢,易可依固;其田土肥壤,灌溉流通。如令羌在湟中,則為害不休,不可弃也。帝然之, 於是詔武威太守,令悉還金城客民。歸者三千餘口,使各反舊邑。援奏為置長吏,繕城郭,起塢候,開導水田,勸以耕牧,郡中樂業。又遣羌豪楊封譬説塞外羌,皆來和親。又武都氐人背公孫述來降者,援皆上復其侯王君長,賜印綬,帝悉從之。乃罷馬成軍。

この当時、朝廷では金城郡破羌県の西を破棄する議論があった。遠く、羌族による略奪も多いためである。
馬援はそれに反対して上言した。
曰く
・破羌以西は堅固な城が多く守りやすい。
・土が肥えて、灌漑も行き届いている。
・もし羌族を湟中*1に居住させると害をなすので、破羌を捨てるべきではない。
光武帝はこれを容れ、武威太守(梁統)に詔して、武威郡に移住していた金城郡民三千世帯をことごとく故郷に帰らせた。
馬援は長吏を置き、城郭を補修し、土塁を築き、水田を開き、農耕牧畜を勧めることを上奏した。
また、羌の豪族、楊封に塞外の羌族を説得させたので、皆来て和親した。
さらに、武都の氐人で蜀の公孫述*2に背いて降伏してくるものがあったが、馬援はもとの侯王君長の位をそのままにし、印綬を賜うよう上言し、光武帝はそれに従った。
揚武将軍馬成の軍をやめた。*3

武都の乱

後漢書』列伝十四 馬援伝
十三年,武都參狼羌與塞外諸種為寇,殺長吏。援將四千餘人撃之,至氐道縣,羌在山上,援軍據便地,奪其水草,不與戰,羌遂窮困,豪帥數十萬戶亡出塞,諸種萬餘人悉降,於是隴右清靜。

建安十三年(西羌伝では十二年)武都郡の参狼羌が塞外の羌族と組んで荒らしまわり、長吏を殺害した。
馬援は四千人を率いてこれを撃ち、氐道縣*4に至った。羌族の塞は山上にあったので、馬援は形勢の有利な地に構え、その水源を断った。
羌族は窮してその豪帥(首領)たち数十万戸は塞から逃亡し、その他のものは皆降伏した。こうして隴右(隴西の西)は落ち着いた。

雲子曰

地図ないとかなりわかりにくいのはあいかわらずである。
羌の豪族の楊封:もしかして『三国志』にでてくる楊秋って羌族
馬成の軍をやめた:将軍が本来臨時職であることが思い出される。乱が平定されるとこのように軍をやめていたのだろう。
十三年の乱における馬援の戦い方って街亭の戦いみたいだ。
張郃は馬援に比する名将ってことでFA。

*1:湟水という川のあたり、金城郡臨羌縣から東して允吾県に至り黄河に合流する。

*2:蜀の群雄、まだ光武帝は中華全土を統一していない。

*3:大司空になったという。ただ数月後再び揚武将軍

*4:隴西郡