雲子春秋

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後漢と羌族、その2

http://d.hatena.ne.jp/chincho/20110613/1307979221の続き。

建武十一年の反乱

後漢書』列伝七十七 西羌伝
十一年夏、先零種復寇臨洮、隴西太守馬援破降之。後悉歸服、徙置天水・隴西・扶風三郡。明年、武都參狼羌反、援又破降之。事已具援傳。

建安十一年、十年に降した先零種が再び隴西郡臨洮県を荒らす。
隴西太守となった馬援*1が破り降し、天水郡、隴西郡、扶風郡に移り住ませた。
翌十二年、今度は武都郡の参狼羌が反乱、馬援はまた破り降す。
詳しくは馬援伝、ということで馬援伝。

後漢書』列伝十四 馬援伝
十一年夏、璽書拜援隴西太守。援迺發歩騎三千人、撃破先零羌於臨洮、斬首數百級、獲馬牛羊萬餘頭。守塞諸羌八千餘人詣援降。諸種有數萬、屯聚寇鈔、拒浩亹隘。援與揚武將軍馬成撃之。羌因將其妻子輜重移阻於允吾谷、援乃潛行輭道、掩赴其營。羌大驚壞、復遠徙唐翼谷中、援復追討之。羌引精兵聚北山上、援陳軍向山、而分遣數百騎繞襲其後、乘夜放火、撃鼓叫譟、虜遂大潰、凡斬首千餘級。援以兵少、不得窮追、收其穀糧畜產而還。援中矢貫脛、帝以璽書勞之、賜牛羊數千頭、援盡班諸賓客。

十一年、馬援は隴西太守となると、すぐに歩騎三千人を徴発して先零羌を破り、斬首数百級、馬牛羊一万頭余りを獲得する。そして塞にいた羌族八千人余りが馬援のもとに来て降伏。
また、数万の羌族の集団が屯し、略奪を行い、浩亹県*2の地形を利用し守っていた。
馬援は揚武将軍の馬成とともに彼らを攻撃した。羌族はその妻子と輜重を連れて允吾谷に移った。
馬援は間道を潜行し、その陣営に到達した。
羌族は大いに驚き壊滅、遠く唐翼谷まで移ったが、馬援はまた追討した。
羌族は精鋭を率いて北山の上に、一方馬援は向山に陣をはった。
そして兵を分け数百騎を迂回させ、羌族の背後を突かせた。
夜に乗じて火を放ち、鼓を撃ち、叫ばせたため、羌族は潰滅。首級数千余りを得た。
馬援は兵が少なかったため追撃出来なかったが、穀物畜産を収め帰還した。
馬援は矢が脛に命中しており、光武帝は璽書で労をねぎらい、牛羊数千頭を賜った。
馬援はことごとく賓客に配った。

雲子曰

降伏した羌族を天水・隴西・扶風といった漢の内地に住まわせている。
五胡十六国時代への伏線が既に貼られている。
戦闘に関しては、地図がないとよくわからない。
しかし中国歴史地図集紛失中……。
武都郡の参狼羌の反乱は西羌伝では建武十一年の明年、つまり建武十二年とされるが、馬援伝では十三年となっている。
十三年の乱は西羌伝には書かれていないので、おそらく、どちらかが年代を誤っているのではないだろうか。
十二あるいは十三年の乱はまた次回以降。

*1:十年の乱後、来歙が「隴西太守は馬援でなくては平定できない!」と推薦した。

*2:金城郡