雲子春秋

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劉備の中郎将

三国志』巻七 張邈伝注引『英雄記』
布水陸東下、軍到下邳西四十里。備中郎將丹楊許耽夜遣司馬章誑來詣布、言「張益德與下邳相曹豹共爭、益德殺豹、城中大亂、不相信。丹楊兵有千人屯西白門城内、聞將軍來東、大小踊躍、如復更生。將軍兵向城西門、丹楊軍便開門內將軍矣」。布遂夜進、晨到城下。天明、丹楊兵悉開門內布兵。布于門上坐、步騎放火、大破益德兵、獲備妻子軍資及部曲將吏士家口。

劉備袁術を攻めている時に起きた呂布による徐州乗っ取り事件。
下邳相曹豹と張飛にけんか?がとても有名だが、曹豹のほかにもう一人、重要な登場人物がいる。
丹楊の人、許耽である。
彼が司馬の章誑をして呂布を呼び寄せた。
この許耽、丹楊兵を領していた中郎将であるようで、城内の丹楊兵に開門させ、呂布を迎え入れている。
さて、劉備と丹楊兵の関わりであるが先主伝に次のようにある。

三国志』巻三十二 先主伝
時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎,又略得飢民數千人。既到,謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。

劉備曹操に攻められていた陶謙を救った時、その配下の兵は、千人余りと烏丸の騎兵であった。
陶謙劉備に勇猛で知られる丹楊兵四千を与えた。*1
おそらくその兵を率いたのがこの許耽(と曹豹?)なのであろう。


毎日のように何度も書いているが、中郎将はその持節の性格から配下への専断権があり、半ば独立した存在であった。
許耽は中郎将として劉備の客将的立場にあったのだろう。


そして彼は実はこの当時の劉備軍閥でもっとも高い武官である。
張飛関羽は別部司馬であり、彼らが中郎将になるのは呂布敗死後。


張飛と曹豹の争いの原因には劉備の元々の配下の兵とこれら丹楊兵の軋轢などが関わっているのかもしれない。

*1:陶謙は丹楊出身