雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

後漢と羌族、その1

西羌伝が面白かったので読んでみる。
最初の沿革はすっ飛ばして、後漢羌族の関わりから読んでいく。

護羌校尉の設置

後漢書』列伝巻七十七 西羌伝
滇良者,燒當之玄孫也。時王莽末,四夷内侵,及莽敗,衆羌遂還據〔西海〕為寇。更始、赤眉之際,羌遂放縱,寇金城、隴西。隗囂雖擁兵而不能討之,乃就慰納,因發其衆與漢相拒。建武九年,隗囂死,司徒掾班彪上言:「今涼州部皆有降羌,羌胡被髮左袵,而與漢人雜處,習俗既異,言語不通,數為小吏黠人所見侵奪,窮恚無聊,故致反叛。夫蠻夷寇亂,皆為此也。舊制益州部置蠻夷騎都尉,幽州部置領烏桓校尉,涼州部置護羌校尉,皆持節領護,理其怨結,歲時循行,問所疾苦。又數遣使驛通動靜,使塞外羌夷為吏耳目,州郡因此可得儆備。今宜復如舊,以明威防。」光武從之,即以牛邯為護羌校尉,持節如舊。及邯卒而職省。

新末、異民族達が侵入し、王莽が敗北したころ、羌族は西海を拠点として荒らし回っていた。更始帝や赤眉の時代になると、さらに、金城や隴西に侵入した。そのあたりに割拠した群雄の隗囂ですらも討伐できなかった。
建武九年に隗囂が死ぬと司徒掾の班彪は言った。
以下発言要旨を箇条書き


・異民族は習俗も言語も違う。
・(漢民族の)小吏たちはしばしば異民族の権利を侵害、それが原因で反乱する。
・昔は(異民族の盛んだった)益州に蛮夷騎都尉、幽州には領烏桓校尉、涼州には護羌校尉を置いていた。
・皆、節*1を持してその地を管理し、異民族達が怨みで団結するのを治めていた。
・毎年巡行し、異民族達のカウンセリングをしていた。
・使いを派遣し情報収集にも努め、州郡はそれによって備えることができた。
・またこれらの制度復活させようぜ!


この意見が通り、光武帝は牛邯*2を護羌校尉とした。旧制に従い持節。
ただ、牛邯は年内か或いは翌年すぐ死んでしまい、彼の死と同時に護羌校尉も一旦廃止。

建武十年の乱

後漢書』列伝巻七十七 西羌伝
十年,先零豪與諸種相結,復寇金城、隴西,遣中郎將來歙等撃之,大破。事已具歙傳。

建武十年に先零種が他の種族と結んで金城・隴西を荒らした。中郎将のやらない夫来歙がこれを討った。
そのことは来歙伝に詳しいらしいので見てみる。

後漢書』列伝巻五 来歙伝
初王莽世,羌虜多背叛,而隗囂招懷其酋豪,遂得為用。及囂亡後,五谿、先零諸種數為寇掠,皆營塹自守,州郡不能討。歙乃大修攻具,率蓋延、劉尚及太中大夫馬援等進撃羌於金城,大破之,斬首虜數千人,獲牛羊萬餘頭,穀數十萬斛。又撃破襄武賊傅栗卿等。隴西雖平,而人飢,流者相望。歙乃傾倉廩,轉運諸縣,以賑贍之,於是隴右遂安,而涼州流通焉。

隗囂は羌族を手懐け利用していた。彼の死後に羌族はしばしば寇掠、彼らは砦をしっかり守っていたので州郡は討てなかったという。
そして、おそらく建安十年、来歙は攻城兵器をつくり、蓋延・劉尚・馬援を率いて金城で羌族を討伐、首級数千、牛羊一万頭あまり、数十万斛の穀物をゲット。ついでに隴西郡襄武の賊傅栗卿らも撃破した。
また、この地には飢えに苦しむ人がたくさんいたので、倉庫を開いて扶助したため、涼州は安定した。

雲子曰…

護羌校尉は今後また復活し大活躍。
前漢における護羌校尉は班彪の言によくまとまっているはず。
また来歙は中郎将であるが、彼が率いた蓋延・劉尚・馬援はそれぞれ虎牙大将軍・武威将軍・太中大夫であった。
大将軍や将軍より上に中郎将があり、中郎将の地位について参考になる。
おそらく、将軍―校尉の系統と中郎将の系統は別であるのだろう。
以前から何度も書いてるが、中郎将の持節的性格が関連しているのではないだろうか。
西羌伝のおもしろさの一つはこのような武官についての記述が多いことである


つづく。

*1:法令違反者を処罰できる

*2:もと隗囂の部下