華陽国志人物伝 王褒
王褒
☆Life Story
文章の才能によって、宣帝のもとに侍した。
はじめ、益州刺史王襄のために『楽職中和頌』を作った。
(刺史がすごい奴がいると上表したため*2)宣帝に徴用され、『聖主得賢臣頌』や、『甘泉』・『洞簫賦』を奉った。
宣帝はこれを気に入って、宮女にうたわせた。
諫大夫となって死んだ。
☆雲子曰…
また文章の徒。
『華陽国志』は省きまくり。『漢書』巻七十に伝がある。
『漢書』からの話。
病気がちだった皇太子のために朝から晩までいろいろな歌や文をつくったりした。
そのおかげで皇太子の病は治ったという。
RPGに出てきそうだね。歌で回復するなんて。
また、彼の最期について。
ある方士が益州に金馬碧鶏*3が有るというので、祭祀を行うことにした。
王褒はそれに派遣されたが、その道中病に倒れ、帰らぬ人となった。
ちなみに彼は先述した何武の師匠でもある。
どうでもいいことだけど、王褒を推薦した益州刺史王襄であるが、中林史郎氏によれば、文翁の私的目的であった文教政策に対し、彼は「漢徳の宣化と言う国家的目的に因り益州地方の文教政策を行」った人物であるという。*4
氏はさらに「文翁の(略)文教政策は、単に軌道を設置したに過ぎず、王襄(略)文教推進に因って、初めて巴蜀の文化開設が浸透し、後漢に至ってその成果を見る事が出来る」といい、益州における文教の発達は文翁よりも王襄によるところが大きいとする。*5
王襄は出身は不明であるが益州刺史となっていることから非益州出身者であろう*6し、また文翁は廬江の人である。
益州の学問、文教政策は、在地の人士によって始まったのではなく、益州外からの地方長官によってもたらされたものなのである。
このことは意外と重要なんじゃないかと思ったり思わなかったり。