華陽国志人物伝 張寛
困った時の華陽国志。久々に華陽国志人物伝です。
張寛
☆Life Story
蜀郡は秦の後を承け、文徳を備えた人が少なかった*1。
そこで、蜀郡太守の文翁*2は張寛を都の博士のもとにやって学ばせた。張寛は都で『七経』*3を学び、帰ってきてから教授した。
こうして、蜀の学問は(学問の先進地)斉や魯に並ぶまでになったという。巴や漢(巴郡や漢中郡?)もこれに感化された。
景帝はこれを嘉し、全国の郡国に命じて文学(学校)を立てさせた。*4
張寛は武帝の甘泉・泰畤の祭祀に従ったが、とある橋を過ぎた時、七尺の巨乳をもつ全裸女性が川で水浴びしているのを見た。その女性は武帝に言った。
「私が誰かを知っている者は帝の七台後の車に乗っています。」
武帝の七台後の車に乗っていたのは張寛であった。
張寛が答えていうには
「天には祭祀を司る星があります。私たちがちゃんと身体を清めていないので、その星が女の姿となってあらわれ(注意しにき)たのです。」*5
武帝は感心し、張寛を揚州刺史とした。
他にも蛇に関する不思議エピソードもある。*6
張寛は前述のエピソードから、世間で「七車張」と呼ばれた。
十五万語にわたる『春秋章句』を著した。
☆雲子曰…
彼のエピソードの半分は文翁でできている。
もう半分は化物語。
中林史郎氏によれば、文翁の文教政策は「巴蜀の地に精通した人物に、官僚的教養を受けさせて自己の副職官とし、郡守としての事務遂行と統治政策をスムーズにする事を目的とした」ものであり、「巴蜀地方の文教政策が更に社会的、国家的意図に因り施行されだすのは、約七十年後の宣帝時代からであ」ったという。*7
そのため、益州出身者が中央でおおいに活躍するのは後漢にはいってからである。
ただし、その基礎はおそらく、この文翁であり、益州における文教の象徴でもあったと思われる。
あれれ……?張寛の記事のはずなのに完全に文翁に乗っ取られてる(汗
乗っ取られついでに『古今図書集成』に引く『西溪叢話』によれば、
文翁は姓が文、名は党、字が仲翁であったらしい。
今日のテーマは蜀の学問の立役者、文翁でした。
張寛?誰それ?