雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

華陽国志人物伝 何武(ちょいと訂正)

何武
字:君公
from:蜀郡郫県
era:前漢
対策甲科(漢の人材登用試験)によって郎となり、揚州・兗州刺史、司隷校尉、京兆尹、清河・楚・沛太守、廷尉、御史大夫を歴任した。
成帝が三公を設置すると、大司空を拝命し、氾郷侯に封じられた。人となりは忠に厚く公正であり、賢人を推挙した。


以下取り立てられた人々。
龔勝・龔舎・唐林・唐尊・何平・辛慶忌


彼らは皆世に名だたる賢人達であった。
州郡を去る際は、たとえ目立った名声がなくても、民衆はこれを思慕した。
才能は丞相であった薛宣や翟方進に及ばなかったが、正しくまっすぐであることは彼ら以上であった。
哀帝が即位すると、何武は免官となった。
諫大夫鮑宣や丞相王嘉のおかげで、何武は再び御史大夫となり、前将軍に遷った。
当時、大司馬新都侯の王莽は外戚の丁氏、傅氏を避け、位を譲っていた。
王莽は何武に推挙を頼んだが、何武は王莽が奸臣であると見抜き、推挙しなかった。
哀帝崩御すると、王莽の姑である太皇太后王政君は、大司馬董賢の印綬(訂正:もっていた皇帝の璽綬)を取り上げ、詔して大司馬を推挙させた。
丞相孔光らは皆王莽を推挙したが、何武と左将軍の公孫禄は「王莽の権力で劉氏がヤバイ」と考え、互いを推薦し合った。
太后は何武らに従わず、王莽を大司馬とした。
王莽の弾劾で罷免され、何武は封国にもどった。
王莽は安漢公となり、簒奪をはかったが、何武らが従わないのをはばかり、元始三年、呂寛、呉章らの事件にかこつけて、何武を逮捕した。
何武は自殺した。人々はこれは冤罪であるといい、王莽は人々の心をつかむために何武に刺公と諡した。
子の何況が継いだ。
王莽は、後に皇位僭称した。


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雲子の言葉。
成帝時代にはじめて三公ができるけど、その建議をしたのが何武。
諸侯王国の内史を省き、相が統治するようになったのも彼の建議。
刺史を牧にするように建議したのも彼。


漢の制度史の上で大変重要な人である。