雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

丁固伝

昨晩、丁固が夢枕に立って
「僕を立伝して丁固信者になってよ(◕‿‿◕)」
と言ってきた。
史書に点在する記述をそのまままとめただけ。
さらにwikipediaの記述とほとんど変わらない。

1.丁固伝(◕‿‿◕)

丁固字子賤、會稽山陰人也。父覽至功曹、守始平長。固本名密、避滕密、改作固。
 注:滕密亦避丁固、改作牧。
在襁褓中、闞澤見而異之、曰「此兒後必致公輔。」少喪父獨與母居、家貧守約、色養致敬、族弟孤弱、與同寒温。
 注:固性敦孝敬、母嘗思筍、固遂泣。竹生筍、母子俱大賢、位至封公、貴極人望。
虞翻與固同僚書曰「丁子賤塞淵好徳、堂構克舉、野無遺薪、斯之為懿、其美優矣。令徳之後、惟此君嘉耳。」
尚書、事太子孫和、後遷廷尉。太平二年、鄱陽、新都民為亂、固與歩兵校尉鄭冑、將軍鍾離牧率軍討之。
永安五年、為左御史大夫、甘露元年、徙都武昌、固與右將軍諸葛靚留建業鎮。
寶鼎元年、永安山賊施但等擁永安侯謙至建業、但遣使以謙命詔固、靚。即斬其使。 固與靚共伐之於牛屯。
生獲謙、固不敢殺、以状告孫晧、晧酖之、母子皆死。
固慮孫皓悖虐、與左丞相陸凱、右御史大夫孟宗同心憂國、與凱、大司馬丁奉謀、因晧謁廟、欲廢晧立孫休子。
時左將軍留平領兵先驅、故密語平、平拒而不許、誓以不泄、是以所圖不果。
三年遷司徒、
 注:『呉録』曰:初為尚書、夢松樹生其腹上。謂人曰「松字、十八公也。後十八年、吾當為公乎。」遂如夢焉。
鳳皇二年、年七十六卒。子彌仕晋、至梁州刺史、孫潭、晋永安伯。
 注:餘杭縣有丁橋、固墓在橋北山之下、九世孫遵梁天監中為臨安令、後築室山間、造橋以便行者、因有是名。
丁橋、今杭州市江幹區丁橋鎮也。
又『十道志』曰:固墓在會稽、又名司徒塚、今不知何所。
 

2.丁固伝訳(◕‿‿◕)

丁固は字を子賤といい会稽郡山陰人である。父の覧は功曹として始平長を兼任した。丁固の名前はもとは密であったが、滕密の諱を避けて固とした。
 注:滕密もまた丁固の諱を避けて、牧に改名した。
幼い頃、闞澤は丁固を見て「この子は必ず大臣にまでなるだろう」
若くして父を失い母と暮らした。家は貧しかったので倹約し、親によく従い、敬意を払い、一族で父母を失った者とも苦しい生活をともにした。
 注:丁固は生まれつき孝行であった。あるとき母がたけのこを欲した。丁固が泣くと竹はたけのこを生んだ。母子ともに大変賢く、位は封公に至り、人臣を極めた。
虞翻は丁固の同僚に手紙を書いた。「丁固は篤厚誠実で、徳を好む。父の業をよく受け継ぎ、野には残された薪は一つもない(遺漏がない)。彼の高潔さ美しく優れている。父上殿の死後、ただ、この方こそがすばらしいのだ。」
尚書となり、太子の孫和につかえた。後に廷尉に遷った。
太平二年(257年)に鄱陽と新都の民が反乱すると、丁固は歩兵校尉の鄭冑、将軍鍾離牧と軍を率いて討伐した。
永安五年(262年)に左御史大夫となり、甘露元年(265年)、首都が武昌に遷ると、丁固は右将軍の諸葛靚とともに建業に留まり鎮守した。
寶鼎元年(266年)、永安の山賊施但らが永安侯の孫謙を擁立し建業に迫った。施但は使者に孫謙の詔をもたせ、丁固らのもとにおくったが、すぐに斬られた。
丁固は諸葛靚とともに牛屯で施但らを討伐し、孫謙を生け捕った。丁固は殺さず、手紙で孫晧に知らせた。
孫晧は孫謙を毒殺し、母子を皆殺しにさせた。
丁固は孫皓が暴虐であることから、左丞相の陸凱、右御史大夫の孟宗と憂国し、陸凱、大司馬丁奉と謀り、孫晧が廟に謁する時、廃立して孫休の子を皇帝にしようとした。左将軍の留平が兵を領し先駆をつとめていたので、密かに留平に語ったが、留平が拒んだので、計画は中止された。
寶鼎三年(268年)に司徒に遷り、
 注:『呉録』によると、はじめ尚書になったとき、夢の中で松の樹が腹の上に生えた。丁固が人に言った「松の字は分解すると十と八と公である。後十八年したら私は公になるだろう。」こうして夢のとおりになった。
鳳皇二年(273年)、七十六歳で死んだ。子の丁彌は晋に仕えて梁州刺史になり、孫の潭は晋の永安伯となった。
 注:余杭県に丁橋という橋がある。丁固の墓は橋の北の山の下にある。丁固の九世の孫丁遵は梁の天監年間(502年 - 519年)臨安令となり、山の間に建物をたて、そこに行く者のために橋をつくった。そうしてこの名前がついた。
丁橋は現在の杭州市江幹区丁橋鎮である。
『十道志』がいうには丁固の墓は会稽にあり、またの名を司徒塚といったが、今どこにあるかはわからない。
 

3.雲子の言葉(◕‿‿◕)

丁固の墓のそばに子孫の丁遵が建てた丁橋。
それが現在も自治体の名前として残っているとは……。
十道志は唐の李吉甫によるものであり、梁から唐までの間に墓そのものの場所はわからなくなったようである。
書いてみた感じだと今残っている記述だけで蜀漢の五虎将の一部の人レベルの分量はあるんじゃないかな。
しかも韋曜の『呉書』には伝があったみたいだし。
陳寿と丁固―三国与太噺
それなのに伝が立てられないなんてまったくわけがわからないよ(◕‿‿◕)
QBの顔文字(◕‿‿◕)たくさん使ってごめんなさい。さぞかしウザかったことでしょう。でも気に入っちゃって……。