雲子春秋

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前漢の丞相長史2

だいぶ間が開きましたが丞相長史のはなしその2。
前回は丞相長史の職掌、賊討伐を取り上げましたが丞相長史の職掌はそれだけではないようです。

漢書』巻四十七「文三王伝」
哀帝建平中,立復殺人.天子遣廷尉賞﹑大鴻臚由持節即訊.至,移書傅﹑相﹑中尉曰:「(中略)幸得蒙恩,丞相長史﹑大鴻臚丞即問.王陽病抵〓,置辭驕〓,不首主令,與背畔亡異.丞相﹑御史請收王璽綬,送陳留獄.明詔加恩,復遣廷尉﹑大鴻臚雜問.(後略)」

梁王劉立はしばしば人を殺し、度々問責された。
建平年間には、廷尉方賞と大鴻臚の畢申*1を派遣したのだが、
その際、彼らが梁国の官吏に送った書中に


丞相長史と大鴻臚丞に問責させた。しかし、王は病を理由に会わず、文辞は驕慢で、罪に伏さず、背叛と変わりなかったので、丞相と御史は王の印綬を収め、陳留の獄に送るように請うたが、詔は恩を加えた。そして再び廷尉、大鴻臚を遣わした云々


とあり、直接の記録ではないが、廷尉と大鴻臚を遣わす前に、丞相長史と大鴻臚を遣わしていることがわかる。

漢書』巻五十三「景十三王伝」
後復謂近臣曰:「我為王,詔獄歲至,生又無驩怡日,壯士不坐死,欲為人所不能為耳.」建時佩其父所賜將軍印,載天子旗出.積數歲,事發覺,漢遣丞相長史與江都相雜案,索得兵器璽綬節反具,有司請捕誅建.

また江都王の劉建が不遜な行動をとった時の調査にも派遣されている。



この他にも宗室に関する問題において丞相長史が派遣される事例がいくつかある。



賊討伐から宗室まで
丞相長史の職掌の広さは同時に丞相の職権の大きさを表しているのかも知れない。

*1:文中では由となっているが百官公卿表を見るに畢申の事であると思われる。