前漢の丞相長史1
丞相長史のはなし。1とあるけど続くか不明。一応続く予定。
『史記』巻一百二十二「酷吏列伝」
自温舒等以惡為治,而郡守﹑都尉﹑諸侯二千石欲為治者,其治大抵盡放温舒,而吏民益輕犯法,盜賊滋起.南陽有梅免﹑白政,楚有殷中﹑杜少,齊有徐勃,燕趙之輭有堅盧﹑范生之屬.大戝至數千人,擅自號,攻城邑,取庫兵,釋死罪,縛辱郡太守﹑都尉,殺二千石,為檄告縣趣具食;小戝以百數,掠鹵鄉里者,不可勝數也.於是天子始使御史中丞﹑丞相長史督之.
彼の統治法は、郡中から豪者を選び、彼らの密かに犯した重罪などの弱みを握る事で、意のままに動かした。
たとえ彼らにどんなに罪が有ろうと黙認したが、意にそぐわないとその重罪を明るみにして族滅するというものだ。*1
それによって王温舒の任地には盗賊は近づかず、道に落ちているものを誰も拾わなくなった(テンプレ)という。
郡守や、都尉、諸侯ら為政者は彼の統治法を見習った。
しかし、吏民は法を犯すことを軽んじるようになり、数多くの盗賊が発生してしまった。
ここで遂に本題の丞相長史の登場である。
「於是天子始使御史中丞﹑丞相長史督之.」
この時から丞相長史は御史中丞とともにこれら賊を討伐する役目が付与されたのだ。
決してこの時限りの役目ではない証拠に、後の成帝期にも賊討伐の記録が残っている。
『漢書』巻十「成帝紀」
夏六月,潁川鐵官徒申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷九郡.遣丞相長史、御史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜.
十二月,山陽鐵官徒蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷郡國十九,殺東郡太守﹑汝南都尉.遣丞相長史﹑御史中丞持節督趣逐捕.
この役目は「於是天子始使御史中丞﹑丞相長史督之.」とあり、天子、つまり皇帝の命令で行われたようである。
丞相長史と司直は皇帝の任命であるという説*2もあり、丞相長史は単純に「丞相府の属官」と捉えるべきではないのかも知れない。