黄忠と何進
『後漢紀』卷二十五「孝霊皇帝紀下」
申屠蟠隱於梁、碭之間,免於黨人之禍,亦爲進所辟,逾年不至。進恨,欲脅以威刑,使同郡黄忠與蟠書曰(後略)申屠蟠は梁、碭の間に隠れ、党錮の禁が終わると、また何進に辟召されたが、一年を過ぎても至らなかった。
何進は恨み、厳しい刑で脅そうとして、同郡の黄忠に蟠に手紙をださせた(後略)
この黄忠がもし何進と同郡ならば、南陽郡出身ということになり、蜀漢の黄忠と同一人物の可能性がある。
ただ、後漢書を見ると
こちらでははっきりと申屠蟠の同郡と書かれている。
何進の同郡なのか、それとも申屠蟠の同郡なのか、どちらが正しいのだろうか。
後漢紀では「何進の同郡」という意味であったのに、それを参照した范曄が意味を取り違え、後漢書において「申屠蟠の同郡」としてしまったのかもしれない。