薛氏の系譜その4
ものすごい久しぶりにこのネタの続きを
薛氏の系譜
薛氏の系譜その2
薛氏の系譜その3
何のためにこのネタをやってたかというと、この薛氏の系譜はあの「薛蘭」の系譜でもあるのです!
薛蘭を知らない・・・?
学園三国志にもちゃんと(?)でてたのに・・・*1
薛蘭については後ほど詳しく!
系譜の続きから
彪生侍御史安期,安期生中山相脩,脩生馬邑都尉山塗,山塗生山陽大守固,
固生龍丘令文伯,文伯生東海相衍,衍生兗州別駕蘭,為曹操所殺.
子永,字茂長,從蜀先主入蜀,為蜀郡太守.
永生齊,字夷甫,巴、蜀二郡太守,蜀亡,
率戸五千降魏,拜光祿大夫,徙河東汾陰,世號蜀薛.<訳>:薛彪は侍御史の薛安期を生み、薛安期は中山相薛脩を生み、
薛脩は馬邑都尉の薛山塗を生み、薛山塗は山陽太守薛固を生み、
薛固は龍丘令薛文伯を生み、薛文伯は東海相薛衍を生み、
薛衍は兗州別駕薛蘭を生み、(薛蘭は)曹操に殺された。
(薛蘭の)子の薛永は、字を茂長といい、蜀の先主に従って蜀に入り、
蜀郡太守となった。薛永は薛斉を生んだ。
薛斉は字夷甫、巴郡、蜀郡二郡の太守となり、
蜀が滅ぶと五千戸を率いて魏に降り、光禄大夫を拝命し、
河東汾陰に移り、代々『蜀薛』と号した。
この中で事績の残っている人物は薛脩、薛蘭の二人。
中山相薛脩は、後漢書によれば、光武帝の子の中山王劉焉の相だったようである。
また、隷釈によると中山相薛君碑というものがあったらしい。
そして薛蘭。
薛蘭は三国志では呂布の(兗州)別駕で、協力を拒んだ李典の叔父の李乾を殺害したが、その後曹操に攻撃され斬られたという残念な人物である。
しかし、後漢書には、党錮の禁の頃の八人の名士集団「八俊」の一人として薛蘭が出て来る。
この「八俊」は兗州山陽郡高平県の人たちで構成されており、兗州別駕となっている呂布配下の薛蘭と同一人物の可能性が非常に高い。*2
もし同一人物ならば、薛蘭は、この地方のトップクラスの名士であることになる。
そうなると呂布、張邈の乱が兗州名士層のかなりの総意の上に成り立ってる可能性が増すがまた別のお話。*3
他の史書には全く書かれていないが、薛蘭の息子の薛永は劉備に従って入蜀したという。
宰相世系表に出ていると言うことは、唐の時代にまで勢力があったということである。
それだけでかなりすごいことなのだ。献帝劉協の子孫も永嘉の乱で断絶するなど、三国以降の乱のなかで様々な氏族が滅んでいる。
唐まで勢力を保つのはなかなか出来る事じゃない。
宰相世系表を読むことで、漢、三国から唐まで勢力を保ったのはどんな氏族だったのかを見ても面白いと思う。
まとめがなんかよくわかんないことになったけどまあいいや。
とりあえず薛蘭を宜しく!!!