雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

岑昏さんいらっしゃい!〜岑昏の先祖〜

蜀の黄皓ほど人気も知名度もない岑昏さん、今日は彼がテーマです。
岑昏は呉の人物で、孫皓の寵愛を受け、呉の滅亡に貢献?し、滅亡直前に群臣達の嘆願で処刑されたという残念すぎる人物です。
演義補正によって、宦官とされていますが、史書には宦官であるとは書かれていません。

彼と思われる人物の載った系図があります。

系図が載っているのは『新唐書』宰相世系表です。
これは唐の時代に宰相となった人物の系図がいろいろ書かれているものですが、ぶっちゃけチラ裏レベルで、信用度は曹操の身長並みに低い場合が多いです。
まあそっからの話なんで、ただのネタみたいなものだと覚悟して読んでね☆



新唐書』宰相世系表岑氏源流

岑氏出自姫姓.周文王異母弟耀子渠,武王封為岑子,其地梁國北岑亭是也.子孫因以為氏,世居南陽棘陽.
後漢有征南大將軍、舞陽壯侯岑彭,字君然.生屯騎校尉、細陽侯 遵.遵曾孫像,南郡太守.生晊,字公孝,黨錮難起,逃于江夏山中,徙居呉郡.生亮伯,亮伯生軻,呉會稽鄱陽太守.六子:寵、、安、頌、廣、晏.後徙鹽官.十世孫善方.

訳:岑氏は姫姓より出る。周の文王の異母弟、耀の子の渠は武王に岑に封じられ、子(子爵)となった。その地は梁国の北の岑亭である。子孫がそのため(その土地の名の岑を)氏とした。代々南陽の棘陽に住んだ。
後漢に征南大将軍、舞陽壮侯の岑彭、字を君然、がいる。屯騎校尉、細陽侯の岑遵を生んだ。遵のひ孫の岑像(豫の誤りらしい)は南郡太守であった。岑豫は岑晊、字を公孝を生んだが、(岑晊は)党錮の禁が起きたため、江夏の山中に逃れ、呉郡に移り住んだ。岑晊は岑亮伯を生み、彼は、呉の会稽、鄱陽太守の岑軻を生んだ。(岑軻の)六人の子供は、岑寵、岑昏、岑安、岑頌、岑広、岑晏である。後に塩官に移り、十世の孫が岑善方である。



ご覧の通り岑昏が出てきました!
特に同一人物である保証はありませんが、時代的に見て同一人物であると思われます。

ここには岑昏以外にもいろいろと人名が出てきましたので、簡単に解説を

岑彭:後漢光武帝の武将として大活躍するも、敵の公孫述の放った刺客に殺された。雲台二十八将の第六位となっている。当然後漢書に伝がある。

岑遵:岑彭伝に附す。岑彭の子で、後を嗣ぎ、屯騎校尉、細陽侯になった。

岑豫:岑晊の父で、南陽太守であったが、貪欲で残酷だったために誅殺された。

岑晊:若い頃から名を知られ、郡の功曹となると、豪族の張汎の一族二百人余りを誅殺するなどけっこう苛烈。その後江夏の山中に逃げる。「八及」のうちの一人(劉表もこの一員)になっている。後漢書に伝がある。

岑善方:字を思義といい、経史に詳しかった。周書、北史に伝あり(具体的事績はほとんど無く、官位が淡々と書かれている)。


正直言って岑彭の子孫というのがなんとも・・・
一方は国を作り、一方は国を滅ぼした。

子孫までずっと優秀というわけには行かないのだ。
他にも新唐書宰相世系表には三国志でおなじみの人物が時折出てきます。
有名どころはネット上でも紹介されているので探してみてください。




宰相世系表はおもしろいのでまた取り上げるかもしれないです。薛蘭の系図とか・・・[[[[[[[[]]]]]]]]