雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

三国志

薛氏系譜再考

あらゆる意味でネタになる『新唐書』宰相世系表。 何度も薛氏の系譜はネタにしたことがあったがまた今回も。 どんだけ薛氏が好きなのか。ていうか誰が得するんだろう。薛蘭好きとかこの世にいるのか??? \ここにいるぞ/ 『新唐書』巻七十三、宰相世系表…

劉焉の監軍使者と州牧について

前回の記事で述べた「刺史と牧にはそのランクの違いしかなかったのではないか」をちょっと補足してみる。 だいぶ昔にも書いたが、後漢代、刺史が軍事を行う場合、御史中丞が刺史や太守及び州郡の兵を「督」していた。 http://d.hatena.ne.jp/chincho/2011062…

劉焉は州牧を置けと言ったのか?

州の長官には州刺史と州牧の二種類あり、州牧のほうが州刺史より権限が強かった。 官位のランクである秩石も、州刺史が六百石、州牧が二千石と州牧の方が高かった。 前漢末に州刺史は州牧となったが、後漢では基本的に州刺史であった。 後漢末に州牧は復活を…

下軍校尉鮑鴻の最期

袁紹・曹操・淳于瓊を含む豪華メンバーでみんな大好きな西園八校尉。 霊帝が私財を投じて中平五年(188)八月に設立した。 同年十一月にその一員、下軍校尉の鮑鴻が同年四月に起きた汝南葛陂の黄巾反乱の討伐に差し向けられている。 んでその鮑鴻、下軍校尉…

漢末輔臣賛、陰脩

北海人雲子撰『漢末輔臣賛』十巻*1 『漢末輔臣賛』陰脩 少府識人、擢用俊秀、光明赫赫、賛陰少府 陰脩字元基、南陽新野人。蓋陰識之後也。漢末為潁川太守、挙五官掾張仲方正、察功曹鍾繇・主簿荀彧・主記掾張礼・賊曹掾杜祐・孝廉荀攸・計吏郭圖為吏。後為少…

『韓玄墓記』多分全文テキスト

清の汪応銓が長沙のバカ太守、韓玄の墓について書いた『韓玄墓記』というものがある。 ういっきーも韓玄の項で触れているので知ってる人も多いと思う。 全文テキストをhttp://www.cqvip.com/Read/Read.aspx?id=9538114で発掘したので、繁体化&日本語訳をす…

初平年間の揚州刺史

初平年間(190−193)の揚州刺史は陳瑀とか陳禕とか陳温とか陳陳しててよくわからない。なので少し整理してみる。 最初の章はただの記述の整理なので、正直読まなくて良いよ。 記述の整理 まず、『三国志』武帝紀・曹洪伝によると、初平元年(190)、曹操は徐…

『華芳墓誌』―華歆の曾孫華芳と太原王氏

1965年、北京で王浚の妻、華芳という人の墓が見つかった。 この墓は西晋永嘉元年(307年)に作られたもののようで墓から『華芳墓誌』とよばれる墓誌が出土した。 この華芳は華歆の曾孫であり、王浚は名門の太原王氏で『三国志』注にたびたび引用される『魏書…

楊儀「費禕さんへ」

参考:http://www.daily.co.jp/newsflash/2012/06/20/0005149968.shtml 費禕さんへ 蜀漢軍の将軍、官吏、関係者を傷つける密告が相次いでいます。たくさんの暴露が行われ、蜀漢軍関係者を混乱させ、将軍、官吏を苦しませています。私は中軍師という立場で心…

益州の有力氏族(旧巴篇)

はじめに 『華陽国志』は県ごとにどのような一族が勢力をもっていたかを載せてくれてるよ! というわけで、表にしてみる。 今回は巴郡から分かれた巴郡・巴東郡・涪陵郡・巴西郡・宕渠郡だよ! あと漢中・蜀・南中があるから三回分の更新は稼げるぜ 有力豪族…

南中の四姓五子

史料 『華陽国志』巻四、南中志 移南中勁卒青羌萬餘家於蜀為五部無當無前號為飛軍分其羸弱配大姓雍婁爨焦孟量毛李為部曲置五部都尉號五子故南人言四姓五子也。 訳: 諸葛亮は南征後、南中の兵や青羌の一万余りの家を蜀に移住させ、五部・無当・無前という部…

霍峻の部曲

『三国志』巻四十一、霍峻伝、附霍弋伝 霍峻字仲邈,南郡枝江人也。兄篤,於鄉里合部曲數百人。篤卒,荊州牧劉表令峻攝其眾。表卒,峻率眾歸先主,先主以峻為中郎將。(略)子弋,字紹先,先主末年為太子舍人。(略)後為參軍庲降屯副貳都督,又轉護軍,統事…

『建康実録』を読んで呉の歴史を復習してみんとす。その2、孫堅〜孫策

はじめに まだエターナってないよ! そういえば言い忘れてたけど基本意訳だから、厳密じゃないよ。 これで誤訳してもおおかた誤訳じゃないよ意訳なんだよ!とごまかせる。 本題 太祖大皇帝の姓は孫、名は権、字は仲謀、呉郡富春の人である。その出自は周の武…

『建康実録』を読んで呉の歴史を復習してみんとす。先秦〜漢

はじめに 私は壊滅的に呉を知らない。 何してたかも、誰がいたかも。 知っているのは関羽の後ろを襲った♂ことくらい。 呉のイメージとしては「陸瑁ってなんで伝たってんだよ」って感じかな。 なので唐の許嵩による呉地方(建康)の通史チックな書物『建康実…

黄忠と何進その2

だいぶ昔に書いた話。 何進の命で申屠蟠という人にに手紙を書いた黄忠が劉備軍の黄忠と同一人物ではないかという説。 http://d.hatena.ne.jp/chincho/20091008/1254995653 申屠蟠の同郡なのか何進の同郡なのか。 何進は申屠蟠の同郡の奚中郎を申屠蟠のもとに…

全三国文

全三国文は三国時代の人物の言論や著述の断片をいろいろな史書・類書から収集したものである。なおソース付き。 清の嚴可均によるもので、全上古三代秦漢三国六朝文の中の一部でもある。 Internet Archiveで読める。 どの巻に誰が収録されているかをここに記…

内川コピペ改変「姜維コピペ」

参考: wikiwiki.jp 要害、漢中で迎えた鍾会戦 関城守将蒋舒が開城降伏、援軍も姿を見せず惨敗だった 漢中に響く兵士のため息、どこからか聞こえる「今年で滅亡だな」の声 無言で退き始める諸将の中、壮年の大将軍姜維は独り剣閣で泣いていた 丞相の北伐で手…

[百度百科]訳出百度百科。蜀漢兵制。

はじめに 百度百科に「蜀漢兵制」なる面白い項目があったので訳出。誤訳多々あると思いますがお許しください! なお、この項の信憑性などは不明。話半分で読んでね。 各章タイトルは雲子による。 蜀漢兵制概略 蜀漢の中央軍は軍師将軍を一人から二人置き、国…

諸葛亮先生の来敏dis

『宋書』列伝第二十二 王微伝 諸葛孔明云:「來敏亂郡(群),過於孔文舉。」 諸葛亮は「来敏が衆を乱すことは孔融以上だ」と言ったらしい。 来敏伝を見てみると 『三国志』巻四十二 来敏伝 注引『諸葛亮集』 亮集有教曰:「將軍來敏對上官顯言『新人有何功…

張魯の殺した「漢使」とは何か&漢中太守蘇固についての妄言

きのうツイートした話を再利用。 『三国志』巻三十一 劉焉伝 張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕谷閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得復通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。 『三国志』の劉焉伝…

皇甫隆

『三国志』巻十六 倉慈伝 注引『魏略』 天水王遷,承代慈,雖循其迹,不能及也。金城趙基承遷後,復不如遷。至嘉平中,安定皇甫隆代基為太守。初,燉煌不甚曉田,常灌溉滀水,使極濡洽,然後乃耕。又不曉作耬犂,用水,及種,人牛功力既費,而收穀更少。隆到…

五斗米道と斬邪の剣

五斗米道に伝わるアイテム、斬邪の剣というものがあったという。 『古今図書集成』博物彙編神異典 神仙部 列傳 張道陵 所引『四川總志』 漢張道陵,初入蜀閬中。居鶴鳴山煉丹修道。感老君,授以祕籙,遂領弟子趙昇王長來雲臺山煉大丹,服之。漢永壽二年,自…

孔融「潁川人無能すぎワロタwww」

孔融の書いた『汝潁優劣論』 汝南の人物の方が潁川の人より優れているといいたいらしい 『汝潁優劣論』 融以汝南士勝潁川士,陳長文難,融答之曰:汝南戴子高,親止千乘萬騎,與光武皇帝共揖*1於道中,潁川士雖抗節,未有頡頏天子者也。汝南許子伯,與其友人…

劉備と公安の由来

『太平御覧』巻一百六十七 州郡部十三 山南道上 荊州 所引『荊州記』 蜀主敗于襄陽、南奔荊州。呉大帝擢為左将軍・荊州牧、城此而鎮之。時號蜀主為左安軍、故名其城曰公安。 劉備は襄陽で敗れて南へ逃れた。劉備は孫権により左将軍・荊州牧となり、この城(…

夏侯纂の三顧の礼

夏侯纂といえば、劉備の益州制圧時の広漢太守である。 大学者秦宓を招聘しようとして断られた人だ。 『太平寰宇記』巻七十三 漢州徳陽県条 秦宓宅 李膺記*1云:三造亭秦子勅*2之宅也。太守夏侯纂三造門、故以為名。按其宅綿水衝毀、僅有餘跡。 秦宓の家 李膺…

突将

諸葛亮の後出師の表に「突将無前」という語が出てくる。 『三国志』巻三十五 諸葛亮伝 注引『漢晋春秋』 突將無前。賨、叟、青羌散騎、武騎一千餘人,此皆數十年之內所糾合四方之精銳,非一州之所有,若復數年,則損三分之二也,當何以圖敵? ここでは中華書…

蜀漢太守表番外1、宜都郡

宜都は実質蜀漢でないようなものなので番外。 人物 期間 前職 後職 兼官 張飛 既定江南(209頃)― 中郎将 南郡太守 征虜将軍 孟達 蜀平後(214)― 不明 魏散騎常侍 樊友 ―建安二十四年(219)十一月 不明 不明 廖化 先主東征(221)―先主薨(223) 関羽主簿 …

ぼくのかんがえた士仁

完全妄想。断定していても妄想だ!俺を信じるな!俺の言葉を信じるな! 士仁は字を君義といい、幽州広陽郡の人である。 公孫瓉に従い、異民族討伐に従事する。 公孫瓉が劉備を青州に派遣した際、趙雲とともに劉備に従い、劉備の主力騎兵である烏丸突騎を率い…

蜀漢太守表3、巴西郡

人物 期間 前職 後職 兼官 張飛 建安十九年―章武元年 南郡太守 車騎将軍領司隷校尉 征虜将軍→右将軍 向朗 蜀平定後―すぐ転任 督四県軍民事*1 牂牁太守 閻芝 夷陵の戦い頃 不明 不明 李福 建興元年*2 成都令 尚書僕射 江州督、楊威将軍 呂乂 緜竹令 漢中太守 …

劉封への援軍要請

劉封と孟達が関羽の援軍要請を断った話がある。 wikipediaを見ると 劉封―wikipedia 同年曹操と孫権の挟撃を受け、関羽が孤立した。関羽からは何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、これを拒否した。結果、関羽…