雲子春秋

「うんししゅんじゅう」です♡ 三国志とか好きです♡

孫寒華 聖地巡礼マップ

お久しぶりです。

孫寒華ブロガーの雲子です。

2020年1月16日発売の三国志14、路招、周喁、黄射、句扶、李封などなど、様々な新登場武将にSNSが盛り上がっておりますね!

というわけで、三国志14への孫寒華の登場を祈願しブログを更新します。

 

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『キングダム』李信の子孫は?

ついにあの人気漫画キングダムの映画が公開されましたね!

 

 https://kingdom-the-movie.jp/

 

これから数日は、映画公開に乗じてテレビやインターネットでキングダムや中国戦国時代の特集なんかが増えてくるかもしれませんね。

 

キングダムは楽しく読んでいるけど、主人公の李信のことはそんなに知らないという人も結構多いのでは?

その李信についてこんな記事がありました。

山崎賢人が演じた『キングダム』主人公の“ざんねんな史実”

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190427-00000009-pseven-ent

確かに“ざんねん”なエピソードが残ってしまっている李信。

でもキングダムのかっこいい信を見ているファンからすると、ただ“ざんねん”で片づけたくないですよね!

実はこの李信、子孫がすごいらしいです!

せっかくなので(私も便乗するために)今日は、李信の子孫について調べてみました。

  • 李信の子孫① 李広
  • 李信の子孫② 唐王朝の李氏
  • 李信の子孫③ 李徴 
  • まとめ
  • おまけ 李信の姓
  • あとがき

 

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袁術の読み方は「えんすい」?

どうもご無沙汰していました、雲子です。

ブログ移転してからはじめての三国志ですね。

 

さて、皆さんは「袁術」をなんと読んでいますか。

呼び方なら「ハチミツ」とか「陛下」とか様々な罵詈雑言がありますが、読み方であれば多くの人は「エンジュツ」と読んでいることでしょう。

 

 しかし、「エンスイ」という読み方をするという説もあるそうです。

今日はそれについて少し調べてみました。

 

「エンスイ」という読み方は『三国志集解』*1に載っています。

三国志集解』巻六 袁術

胡三省曰「術字公路、當讀如『月令』審端徑術之術、音遂。」*2

どうやら袁術を「エンスイ」と読むのは『資治通鑑』の注釈者、胡三省が言っていることのようです。

それでは、引用元の『資治通鑑(胡三省音注)』を見てみましょう。

資治通鑑』巻五十六 霊帝建寧二年の条

初、太尉袁湯三子、成・逢・隗、成生紹、逢生術。

(胡三省注)據術字公路、當讀如『月令』審端徑術之術、音遂。又據『説文』「術、邑中道、讀從入聲。」則二音皆通。*3

胡三省は次のように言っています。

袁術の字が公路であることから、きっと『礼記』月令にある「審かに径術を端す」の「術」、音は遂(スイ)として読むのだろう。*4

また、『説文解字』の「術は邑(むら)の中の道、入声*5で読む。」を拠り所とすれば、二音はどちらも通じている。 

 この胡三省の論はどういうことなのかというと、まず前半部ですが、当時、名前と字(あざな)には何らかの対応関係があるため、袁術の場合、字が公路なので、「術」は「路」と対応関係になる「径術」の「術」だと言っているのだと思われます。

この「径術」は馴染みのない熟語ですが、漢文大系『礼記』巻六「月令」*6の注釈によると「田間の溝(術即ち遂)と人の歩む道(径)」のことだそうで、径は道≒路なので、術と対応するようです。

そして、この「径術」の「術」は「遂(スイ)」と通じ*7、「スイ」と読みます。

 

続いて後半部は『説文解字』を引用し、術は入声で読み、術と遂の二音は通じていると言っているような気がします。←追記)誤解釈。下の追記覧を参照ください。

ただ、正直に申し上げると私の実力不足でこの後半部の解釈がよくわかっていません。

というのも、「術」を「スイ」と読むのは入声ではなく去声という別の声調のときで、「遂」も去声なのです。

さらに、「術」を入声で読んだときの日本語的発音は「シュツ」とか「ジュチ」(「ジュツ」は大漢和辞典によると慣用音)なので、入声で読むなら、遂と音は通じないし、「スイ」とは読まず「エンジュツ」でいいのでは、となってしまいます。

 

そもそも『説文解字』を見ると、胡三省の引用とは微妙に異なっています。

 『説文解字注』第四巻 第二篇下

術、邑中道也。从行朮聲。

注)食聿切、十五部

 胡三省の引用では「入声に従りて読む」となっていた部分が、『説文解字』の原文では「行に从(従)い、朮を声とす(行部に属し朮が音をあらわす)」となっています。

まあ「朮」も入声なので同じことを表しているといえばそうなのですが。

 

後半部の解釈は詳しい人がきっと補足してくれると信じて、とりあえず今日わかったことは、「袁術」を「エンスイ」と読むのは名前と字(あざな)の対応を根拠に胡三省が考えたものということです。

つまり、あくまでも胡三省の論であって、おそらく今までそれを考証している人もおらず、明確な根拠があるものではないため、袁術を「エンスイ」と読むのが正しいというわけでもないように思われます。

「エンジュツ」派と「エンスイ」派で戦争が繰り広げられることを避けるため、「陛下」とか「ハチミツ」とか呼ぶようにするのが最も平和的といえることでしょう。(適当)

 

 *1/26 追記

私が左慈を投げた後半部について、詳しい方が教えてくれました。

胡三省は「スイ」、「ジュツ」の両論併記をしているということのようです。

つまり、「エンスイ」、「エンジュツ」どちらが正しいという結論は胡三省の中でも出ていないものと思われます。

なお、平凡社の世界大百科事典第2版では「えんじゅつ」と読むのは誤りとしてしまっているようだ。

胡三省の言葉をしっかりと読むと、誤りとまでは言っていないので、平凡社さん、世界大百科事典第3版では「エンスイ」、「エンジュツ」を両論併記して♡

 

 

*1:中華民国考証学者盧弼による『三国志』の注釈書、「さんごくししっかい」と読む

*2:胡三省曰く「術の字は公路、當に『月令』の「審かに径術を端す」の術のごとく讀むべし。音は遂。」

*3:術の字の公路たるに據れば、當に『月令』の「審かに径術を端す」の術のごとく讀むべし。音は遂。又た『説文』の「術は邑中の道、入声に従りて読む」に拠れば則ち二音皆な通ず。

*4:「当」を当然の意で読むべきか、推定の意で読むべきかはわからないけど、今回は推定の意で読んでいます

*5:古代中国語の声調の一つ

*6:服部宇之吉校訂『礼記』(合資会社冨山房「漢文大系十七」、大正二)

*7:『周礼』では「審端径」と表記されている。

ブログ移転してきました!

今まではてなダイアリーで頑張ってきましたが、どうやらサービス終了してしまうみたいなのでお引越ししてきました!

これからよろしくお願いしますね!

昔のブログも消えるわけじゃないから良かったら読んでくれたらうれしいな♡

d.hatena.ne.jp

ブログの移転について

はてなダイアリーのサービス終了が発表されたので、今後は普通の女の子に戻って、はてなブログで更新していこうとおもいます。

新URL→https://chincho.hateblo.jp/

これからもよろしくお願いします!

孫寒華ってどんな人?百歳越えの道術ロリ

最近、三国志大戦に追加された孫寒華史書には載っていないのであまり知られていない。
私は、今から約10年前に寒華たんと出会って以来の古参ファン*1なので、大変にうれしいとともに、ちょっと寂しさもある。
応援していた地下アイドルが有名になってMステとかに出るような気持ちだ。多分。
大戦で知って寒華たんってどんな人だろうとググる方のために、今日は簡単に彼女のプロフィールを紹介したい。
孫寒華の経歴は陶弘景(456-536年)が編纂した「真誥」という道教の書物に詳しく載っている。

孫寒華って何者?

孫寒華は孫権のいとこ孫賁の孫*2で、孫策に従い孫権のもとで立信校尉になった杜契*3という人と情を通じた(意味深)。
時期は不明だが、二人で駆け落ちもしたらしい。
その後、杜契が仙道を学んで玄白の法(後述)を会得すると、寒華も杜契から玄白の法を学んだという。
寒華はこの玄白の法のおかげで少女のような容貌をしていたが、この法を実践するには、情を通じ(意味深)てはならないらしく、いつも一緒にいたにも関わらず、一度もしなかったらしい。
彼女は「真霊位業図」という道教の神や仙人の序列の中で、第六地仙散位という地位にいるらしい。*4

今書いてて思ったけど、事績という事績は何もない気がしてきた。
一言で言うと「駆け落ちしたりするほど愛に生きたけど、禁欲で得た仙術でロリ顔を手に入れた女の子」。
瀬戸内寂聴みたいなものか。*5(雑)

玄白の法

さて、寒華たんが会得した玄白の法とは、人を長生不死にし、あらゆる障害を退けるもので、三十年実践すると、体や姿を隠し一日に五百里を行くことができる「胎精中景玄白法」にアプデできるらしい。
その実践方法は次の通り。
毎朝、丹田の中に黒気があり、心臓の中に白気があり、臍の中に黄気がある様子を存思*6する。
これを正午まで行って、最後に気を百二十回服する。
六畜(ウマ、ウシ、ヒツジ、ブタ、イヌ、ニワトリ)、五辛(にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、はじかみ)を食べてはならず、家族とは寝所を別にし、情を通じ(意味深)てはならず、情を通じたら死ぬ。

毎日正午まで時間が取れる人は試してみよう。
きっとロリ顔になれるはず!

さいごに

今日の話は、京都大学六朝道?の研究」研究班様の『眞誥』譯注稿(三)をもとに作成している。
もし興味を持った方がいらっしゃったらぜひダウンロードしてみてね。(孫寒華がでてくるのは671ページ(pdf上は106ページ)から)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/66790
玄白の法についてもだいぶ端折ってるから、もし本当に実践したければ、これを読んでみよう。

追記

タイトルの百歳越えを回収し忘れたので追記。
孫寒華の記述の元が書かれた晋の頃(300年後半)にまだ生きていたらしく、上の記述は現在進行形で書かれていたので、100歳を超えても少女の容貌をしていたということ。
ていうか玄白の法実践してるから、まだ中国の山奥とかで生きてるんじゃないかな(適当)
少女の顔してるからみんな気が付かないだけで。

*1:https://twitter.com/my_birthday0128/status/189349351863230464

*2:孫賁の子の山陰王孫奚の子だと言うが、そんな人は史書にはのってないし、呉は傍系を王にはしていないはず。

*3:三国志には見られない人、契の左上は横棒4本

*4:あんまりよくわかんないがそんなに高くない位置

*5:wikiみたら出家しても別に禁欲してないらしい。

*6:道教の瞑想法

唐珍について

昨日の続きの唐氏シリーズ。
今日は唐珍。
唐珍は宦官唐衡や、少帝の妻の唐姫*1、荀彧の妻?の一族で売官により司空までなった人だ。
この唐珍について『広東通志』、『百越先賢志』で今まで知らなかった記述を見つけた。

『広東通志』巻四十四 人物志
唐珍字恵伯、桂陽人。幼時聞人講書即能記誦、人謂神童。及長状貌瓌特、善事父母。天性恬漠、荊州刺史度尚甚稱重之、及就辟召、累官太常。
熹平二年秋、代楊賜為司空。嘗奏請沿海立堠戍以防蠻宼。
其先世家本潁川、同族有中常侍衡、與左悺等竊弄威福。衡常呼珍為弟、珍恥之。遂陽瘖不復出言。以病罷歸、居公位僅朞月。光和二年卒、郷人立廟祀之祈禳有應號唐司空廟。
『百越先賢志』巻三
唐珍字恵伯、桂陽人。幼聞讀書即能記誦、天性恬漠、寡欲。荊州刺史度尚、甚稱重之、及就辟召、累官太常。
熹平二年、代楊賜為司空。嘗奏請沿海立堠戍、以防夷冦、天子不從。
自言先世家本頴川大父南徙已居三世。同族有中常侍衡、與左琯等竊弄威福、衡常呼珍為弟、珍耻之。然衡有弟、方為京兆虎牙都尉、珍謂所親曰「彼已有虎牙弟、又奚用弟我為耶。」。
自是陽瘖、不復出言。遂以久病罷歸。素師事郴人成武丁、得黄老養性之術。閉戸呼吸玄牝、人罕接焉。光和二年卒、郷人屢見其出入山水間、立廟祀之、號唐司空廟
(據『太平御覧』『人代紀要』『穎川志』『湟州志』叅修)

2つの記述は多少異同があるが、おそらく引用元は同じだと思われる。
まとめると次のようなことを言っている。

唐珍、字は恵伯、桂陽の人である。幼い頃から書物の講義を受けるとすぐに記憶して暗誦したので、神童と呼ばれた。成長すると容貌はすぐれ、よく父母に仕えた。
生まれつき落ち着きがあり、欲が少なく、荊州刺史の度尚*2は唐珍をたいへん称賛し重んじた。辟召されて職に就くと、官位を重ねて太常になった。
熹平二年(173年)秋、楊賜に代わって司空となった。常に海沿いに物見やぐらと、とりでを立て賊を防ぐよう奏上したが、皇帝は従わなかった。
自ら祖先の家はもともと潁川であり祖父が南の桂陽に移ってすでに3代と言っていた。
同族に中常侍の唐衡がおり、左琯らとともに権力をほしいままにしていたが、唐衡は常に唐珍を弟と呼び、唐珍はこれを恥じた。
唐衡の弟の方は京兆虎牙都尉であったが、唐珍は親しい者に言って曰く「彼にはすでに京兆虎牙都尉の弟がいる。またどうして弟を私とする必要があるのか*3。」
自ら声が出ない病気を装い、二度とは発言することがなかった。そして、長い病により罷免され、帰郷した。三公の位にあることわずか一か月であった。
日ごろから郴の人、成武丁に師事しており、黄老の養生術を会得した。戸を閉じ鼻と口で呼吸し人と交友することは稀だった。*4
光和二年(179年)に死去したが、郷里の人がしばしば、唐珍が山や川の間を往来しているのを目撃したため、廟を立ててこれを祀り、唐司空廟と号した。

この記述を信じるとすると、後漢書では潁川の唐珍とされているが、実際には桂陽の人であった。
おそらく桂陽に居住していても本籍は潁川のままであったために、潁川の唐珍と書かれているのだろう。
さらに、宦官唐衡の弟とされていたが、実際には同族であったから弟と呼ばれただけだったという。


ただ、この話を読むと、熹平二年(173年)に司空になった唐珍が、宦官の唐衡から弟と呼ばれたことで病気を装って罷免された、という流れに思えるが、唐衡は延熹七年(164年)に死んでいる。
うまく意味が取れていないせいかもしれないが、時系列がめちゃくちゃになっている気がする。


また、『太平御覧』に引く『汝南先賢伝』によると汝南太守唐珍という人がおり、免職になって故郷に帰っていた陳蕃を功曹として招聘している。

『太平御覧』巻二百六十四 職官部六十二 所引『汝南先賢伝』
袁閬,字奉高,為功曹,辟太尉掾。太守唐珍曰:「今君當應宰府,宜選功曹以自代。」因薦陳仲舉,珍即請蕃為功曹。

適当訳
袁閬、字は奉高、功曹であったが太尉掾に辟召された。
(汝南)太守の唐珍は言った。「今君は宰相の府に仕えようとしているが、代わりの功曹を自ら選ぶべきだ。」と。
そのため陳仲挙(陳蕃)を薦め、唐珍は陳蕃に功曹になってもらうよう要請した。

唐珍を称賛した荊州刺史度尚は八廚の一人で党人だし、この陳蕃も党人である。
唐珍は宦官の一族にしては党人との関係が深い。



唐珍は官位を買ったと批判されてたり、司隷校尉で宦官と結託していたという話もある。
なんとなくだが桂陽出身で司空になった唐珍と、潁川出身で唐衡の弟の唐珍という二人の別人を混同しているのではないかという気がしてしまう。
ぜひ唐珍についてみんなも考えてみよう!


補足:『百越先賢志』によると、上の記述は『太平御覧』『人代紀要』『穎川志』『湟州志』を参照したとのことであるが、『太平御覧』、『人代紀要』には唐珍についてのここまでの詳しい記述は見られない。
『穎川志』『湟州志』はおそらく『潁川志』、『湟川志』の誤記であると思われる。*5
『潁川志』、『湟川志』はいくつか種類があるようで、いつ成立したものを参照したのかはよくわからない。
潁川志は古いものだと、後周(951-960)の樊文深が書いた『中嶽潁川志』がある。*6
また、『湟川志』は宋代に成立したものがあるとネットに書いてあった。

*1:違うかもしれない

*2:度尚の荊州刺史在任期間は延熹五年(162年)〜延熹七年(164年)

*3:「又奚用弟我為耶」の訳だがあまり自信がない。

*4:閉戸呼吸玄牝人罕接焉。の訳が全然わからない!

*5:『百越先賢志』の他所で『潁川志』、『湟川志』の引用がある

*6:旧唐書』巻四十六 經籍上