婁圭の氷の城
前回更新から1年半も経過してしまいました。
最近はこんな動画を投稿したりしてます。
王必と応劭を広めるために始めたのに出番ほとんどなくて作戦は失敗しました。
1,000再生いけばいい方かと思ってましたが、5,000くらい再生されたものもありがたいことです。
さて、本題、動画内で婁圭が出てきたので今日は婁圭のことを一つ。
『三国志』巻一 武帝紀 注引『曹瞞伝』
時公軍毎渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯説公曰:「今天寒,可起沙為城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。或疑于時九月,水未應凍。
建安16年(211)、曹操と馬超・韓遂が戦った時のこと、曹操軍は渭水を渡るたびに馬超の騎兵の攻撃を受ける上、砂がちで土塁も作れず、橋頭保を築けないでいた。
婁圭は、「今は寒いので砂で城をつくり水をかけておけば(凍結し)一夜で完成できる」と進言、曹操はこれに従い、夜のうちに川を渡り、城を作り水をかけさせたところ、翌朝には城が完成し、無事に渭水を渡ることができたという。
『三国演義』でも採用された婁圭の有名なエピソードだ。
同上
臣松之案魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!
これに対し、裴松之は「季節は閏8月だぞ、そんな寒いわけないぞ」と疑念を示している。
というわけで、今回はこのエピソードが本当にありえないのかを調べてみる。
そもそも、建安16年閏8月とはいつなのだろうか。
中央研究院両千年中西暦転換で調べてみると、西暦211年9月25日〜10月24日が閏8月だという。
馬超・韓遂が渭水の南で曹操に敗れたのは9月庚戌の日で、*1西暦だと211年11月15日になるので、氷の城を作って渡河したのは閏8月の終盤であることは充分考えられる。
北海道じゃ10月に初雪も降ることあるし、閏8月に凍るくらいの気温になってもおかしくないんじゃないかな。
裴松之「北海道は北緯41〜45°、渭水近辺は北緯34〜35°、日本なら大阪とか京都とかだぞ。」
仕方がないのでそのあたりについても考えてみる。
後漢末以降、世界的に寒冷化していたと言われているおり、北緯34°で北海道並みの気候になっていても全然おかしくない。
実際に次のような記事がある。
『宋書』巻三十三 五行四
呉孫權嘉禾三年九月朔,隕霜傷穀。
呉の嘉禾三年九月一日に霜が降りて穀物を損なったという。
嘉禾三年九月一日は西暦234年10月10日、霜が降りた詳細な場所は不明だが、呉はだいたい北緯24〜34°である。
『晋書』巻二十七 五行上
太康五年(略)九月,南安郡霖雨暴雪
太康五年九月、南安郡で長雨と大雪が降ったという記事もある。
太康五年九月は西暦284年9月27日〜10月25日、南安郡の緯度は北緯35°である。
このように、当時は寒冷化しており、建安16年の閏8月に氷の城が建つというのは充分にあり得ることであったと思う。
王必(おうひつ)とはどんな人?曹操を黎明期から支えた忠臣
曹操の覇業を支えた忠臣といえば、荀彧(じゅんいく)、
荀攸(じゅんゆう)や程昱(ていいく)などが有名です。
彼らと比べるとほとんど知られていないですが、彼らに匹敵するくらい曹操の勢力拡大に貢献した王必(おうひつ)という人物がいます。
曹操からは、鉄や石のように固い志をもち、国の良吏であると褒められています。
一体どのような人物だったのでしょう。
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この記事の目次
曹操のために命懸けで献帝のもとへ
呂布を舌で殺す
金禕の反乱と王必の最期
三国志ブロガー鎮虎将軍雲子の独り言
曹操のために命懸けで献帝のもとへ
王必は曹操に初期から仕えた人物です。
曹操は初平2年(191年)に兗州牧(えんしゅうぼく)となると、
献帝のもとに使者を送ります。
使者として選ばれたのが、兗州従事(えんしゅうじゅうじ)の王必でした。
従事は州の役人で、基本的に地元からの登用なので
王必は兗州出身なのでしょう。
当時、献帝は長安にいましたが、その長安は李傕(りかく)や郭汜(かくし)によって乱れており、
さらに、関東諸将(反董卓連合)との国交は断絶した状態でした。
王必は長安に向かいますが、その途中の河内郡(かだいぐん)で、太守の張楊(ちょうよう)から通行を拒まれます。
しかし、張楊の幕僚であり後に曹操に仕えることになる董昭(とうしょう)のとりなしで、通行を認められました。
しかも、曹操を献帝に推薦する上表までしてもらうことになります。
董昭は兗州の出身者でしたから、王必とは同郷の誼もあったのかもしれません。
そうして長安にたどり着いた王必でしたが、長安でもまた困難に遭遇するのです。
李傕や郭汜は、「関東の諸将は自分たちで皇帝を立てようとしており、
今曹操が使者を送ってきたとはいえ、それは真意ではない」
として王必を留め、その意向を拒絶しようとしました。
ここでもまた王必を助ける人物がでてきます。
当時、黄門侍郎として漢朝に仕え、後に曹操の配下となる鍾繇(しょうよう)です。
鍾繇は畜生として知られていますが、この時は李傕らに対し
「群雄割拠し、朝命に従わない者ばかりの中で、
ただ曹操だけが献帝に心をよせています。」
と曹操の忠義を伝え、王必は無事に使者の任を全うすることができました。
呂布を舌で殺す
その後、兗州で曹操の親友の張邈(ちょうばく)や、
部下だった陳宮が呂布を引き入れ反乱を起こしますが、
王必は曹操に反することなく仕えていたようです。
曹操が司空(しくう)となると、兗州従事から司空主簿(しくうしゅぼ)となったようで、
下邳(かひ)の戦いで呂布を捕えたときに王必は主簿として再び登場します。
曹操は捕らえた呂布を生かしたいと思い、縄を緩めようとしましたが、
王必は「呂布は強い捕虜で、その軍勢は近くにいます。緩めてはいけません」
と諫め、結局呂布は縊り殺されることになります。
王必の進言により、呂布は死ぬことになったのです。
金禕の反乱と王必の最期
王必はその後、丞相府の官吏のトップである丞相長史(じょうしょうちょうし)となって登場します。
曹操は、王必について次のような布告を出します。
「王必は、私がいばらを取り除いていたような創業時からの官吏である。
忠義でよくはたらき、心は鉄や石のように固い志をもっている国の優良な官吏である。」
王必は非常に曹操から信頼されていたのです。
さて、王必と親しくしていた金禕(きんい)という人物がいます。
金禕は郡国から会計報告等のために中央に派遣されてきた上計吏でしたが、
朝廷内の官吏や高官と結び、密かに反乱を企んでいました。
建安二十三年(218年)、曹操が鄴(ぎょう)にいる間に、金禕らは許都(きょと)で反乱を起こします。
王必は曹操から留守を預かり、許都の兵を統括して皇帝を守ることを命じられており、許都防衛のトップだったのです。
そのため、反乱ではまず王必が狙われ、王必は肩を射抜かれます。
反乱が起きた当初、王必は誰の反乱かわからず、金禕の家に駆け込みますが、
反乱軍の仲間だと勘違いした金禕の家の者は「王必を殺したか?」と問うたため、
その反乱が金禕によるものと知ることになります。
王必は、典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)厳匡(げんきょう)とともにこの反乱を鎮圧しますが、
十日あまりして、そのときの傷がもとで死んでしまいます。
曹操は王必の死を知って激怒し、漢の百官を鄴に呼びつけ次のように言います。
「反乱の際に消火にあたったものは左に、消火しなかったものは右につけ」と。
百官たちは消火にあたたものは無罪となると考え、皆左についたところ、曹操は彼らを皆殺しにしてしまいます。
「消火しなかったものは反乱を助けたはずはないが、消火に当たったものは本当の賊なのだ」というのです。
王必の死に対しての異常なまでの措置ですが、それほどまでに王必のことを想っていたのでしょう。
三国志ブロガー鎮虎将軍雲子の独り言
曹操の覇業には地味ながらいぶし銀のように活躍した王必のような人物がいました。
中国の研究者の于濤氏は、王必を使命をまっとうし、
曹操に長安の形勢をしらせたことを高く評価しています。*1
また、許都の反乱は、漢の臣だけでなく、かつて曹操の幕僚であった者も反乱の中心にいるなど、曹操政権を揺るがすものでした。
それを命を懸けて鎮圧し、許都防衛の任を全うしたことは非常に重要なことです。
もし、王必が鎮圧に失敗していたらその後の魏の成立はなかったかもしれません。
そんな重要な人物ですが、コーエーのシミュレーションゲーム、三国志にはでてきていません。
大変残念なことですね。
「今回の三国志のお話はこれでおしマイケル
次回もまた雲子春秋でお会いしましょう
それじゃまたんき〜!」
後漢書の元ネタ〜曹操悪評編〜
献帝の憤り−てぃーえすのワードパッド
上の記事に引用されている、献帝の曹操に対する憤りについて書かれた次の文
『後漢書』皇后紀第十下、献帝伏皇后
自帝都許,守位而已,宿衞兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策, 曹操惡而殺之。其餘内外,多見誅戮。操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之。操出,顧左右,汗流浹背,自後不敢復朝請。
どうやら習鑿歯の『漢晋春秋』からの引用らしい。
『太平御覧』皇王部十七、孝献皇帝
《漢晉陽(春)秋》曰:獻帝都許,守位而已,宿衛近侍,莫非曹氏黨舊恩戚。議郎趙彥嘗為帝陳言時策,曹操惡而殺之,其餘內外多見誅。操后以事入見殿中,帝不任其忿,因曰:「君能相輔則厚,不爾,幸垂恩相舍。」操失色,俯仰求出。舊儀三公輔兵入朝,令虎賁執刃挾之。操顧左右,汗流洽背,自後不敢復朝請。
『漢晋春秋』について詳しくは以下の記事が詳しい。
『漢晋春秋』の蜀漢正統論−三国与太噺
『漢晋春秋』では漢と晋を正統王朝とする一方で、魏を正統王朝とみなしておらず、憚ることなく魏や曹操の悪評を書くことができたようである。
『後漢書』は曹操に対して厳しい立場をとっており、『漢晋春秋』は非常に都合の良い史書であったのだろう。
蜀漢の春秋
春秋時代の語源となった史書『春秋』、注釈者により複数のバージョンがあり、現在最も通行しているものは左丘明による『春秋左氏伝』である。
『隋書経籍志』には『春秋』の概要が書かれており、後漢代には、主流として『公羊(くよう)伝』の厳氏派と顔氏派、『穀梁伝』の三種が国学で教授されていた。
『左氏伝』は後漢代からそれなりに学ぶものが多かったが、メインストリームとはなっておらず、魏晋以降に主流となっていったという。
三国志的には関羽が好んだり、杜預が注釈をつけたのが『左氏伝』である。
さて、蜀漢ではどの『春秋』がメインだったのだろうか。
簡単に表を作ってみた。
名前 | 左氏 | 公羊 | 穀梁 | 学問的官位 |
---|---|---|---|---|
張裔 | ○ | |||
孟光 | ○ | 議郎 | ||
来敏 | ○ | 典学校尉 | ||
尹默 | ○ | 勧学従事 | ||
李譔 | ○ |
『三国志』の中では蜀漢において、『穀梁伝』を行った人については記録がない。
来敏、尹黙、李譔は荊州で学問しているが、荊州は潁容という左氏の大学者の門下が大量流入していたため、左氏が隆盛しており、*1尹黙、李譔の師の宋忠も左伝の大家であったという。
尹默は劉禅が太子になると、僕射として左氏伝を教授している。
また、李譔は同じく劉禅の僕射となっており、劉禅は『左氏』で育ったようである。
これらのことから、当初こそ張裔や孟光のような公羊伝を収めたものもいたが、劉禅自身も左氏伝で育っており、左氏伝がメインストリームであった可能性が高いと思われる。
*1:詳しくは野沢達昌「後漢末 荊州学派の研究」
三部司馬の条件
晋の令には、左右衛将軍が統率した三部司馬(前駆司馬、由基司馬、彊弩司馬)の選考規定について次のようにある。
『晋令輯存』巻五 選将令第二十七
選三部司馬、皆限力舉千二百斤以上。前驅司馬、取使大戰(戟)、由基司馬、取能挽一石七〔豆斗〕以上弓。*1
三部司馬は1,200斤以上を挙げる力を持つものからのみ選ばれたという。
『全訳漢辞海』付録の度量衡表によれば、1斤は16両、晋代の1両は13.8g。
つまり1,200斤は1,200×16両×13.8g=264,960g、約265キログラムである。
重量挙げの世界記録を見てみると、105kg超級の世界記録が264キログラムであるらしい。
衛将軍はそういった世界記録レベルの猛者を率いて宮殿を警備していたと考えると、宮殿内のイメージが変わるかもしれない。
*1:御覧三八六引晋令。
牛金の出自と子孫
『元和姓纂』巻五 牛
宋微氏之後、司寇牛父、子孫以王父字為氏。戦国時趙有牛翦、秦有牛缺。
【隴西】漢牛邯為護羌校尉、居隴西。又有牛崇、牛嘉。魏有牛金。
(中略)
【安定】状云牛金之後、逃難改牢氏、又改為遼氏。裔孫後周工部尚書、臨芤公遼允、復姓牛氏。(後略)
『元和姓纂』によると牛金は隗囂から後武帝に降った護羌校尉牛邯の子孫であり、隴西の人であるらしい。*1
また、牛金の子孫は難を避けるために改姓して牢氏と名乗り、後にさらに改めて遼氏とし、後周になって臨芤公*2の遼允がようやくもとの牛氏に戻したとのこと。
『晋書』によると石に刻まれた「馬(司馬氏)の後に牛有り」を信じた司馬懿によって牛金が暗殺されている。
難を避けるとはこれに関連しているのかもしれない。
その後の遼氏云々は異民族が格を付けるために無理やり牛金と関連付け、漢人出自を装おうとしたんじゃないのと疑ってしまう。
それはそうと、牛金が隴西出身だとすると、隴西出身の董卓の娘婿*3となっている牛輔とも関係ありそうだよね。
また、どちらも隴西牛氏だとすれば、羌族との関係は気になるところである。
護羌校尉牛邯の子孫として羌族に影響力があったかもしれない。
牛金は対蜀戦線で使われているのはそういった関係からだろうか。
牛金は牛輔の縁者で、牛輔死後、呂布に属し、曹操に降伏、曹仁の騎将として配属されたみたいな妄想をした。
まあ張繍経由の可能性もあるけど隴西出身なら少なくとも董卓は経由してそう。
『元和姓纂』なのでこれらの話の信憑性自体はそんなに高くはないが、妄想の種にはなるね。
記されぬ封侯
『後漢書』列伝第二十一 羊続伝
中平三年,江夏兵趙慈反叛,殺南陽太守秦頡,攻沒六縣,拜續為南陽太守。當入郡 界,乃羸服輭行,侍童子一人,觀歷縣邑,採問風謠,然後乃進。其令長貪?,吏民良猾,悉 逆知其狀,郡內驚竦,莫不震懾。乃發兵與荊州刺史王敏共擊慈,斬之,獲首五千餘級。
黄巾の乱後に起きた中平三年の江夏兵趙慈の反乱、それを鎮圧した荊州刺史の王敏。
『後漢書』には書かれていないが封侯されていたらしい。
『水経注』巻十二 聖水
聖水又東逕勃海安次縣故城南,漢靈帝中平三年,封荊州刺史王敏為侯國。又東南流注于巨馬河,而不達于海也。
『水経注』には中平三年に安次県に王敏を封じて侯国としたとある。
反乱鎮圧の功績で封侯されたのだろう。
県侯であるにも関わらず『後漢書』には記されていない。